水辺の「川西町」、「三宅町」から桃太郎の古里「田原本町」 辺り  その23
 東源山「浄福寺(じょうふくじ)」

 「唐古・鍵考古学ミュージアム」から東へ行って、また、「大和川」沿い「しきのみち」を南へ行くと、「平田橋」「大平橋」「大川橋」、次の「蔵堂(くらんど)橋」を渡った所に融通念仏宗「浄福寺」があります。寺院の創草は明らかでありませんが、寺伝では1571年(元亀2年)住職快運の中興と云い、本尊「阿弥陀如来坐像」は、元森屋伊与戸の大伽藍の旧仏と云われ、古文書に蔵堂村「東浄福寺」とあり、「西浄福寺」と共に大寺「新薬寺」の草庵でした。なお、本堂は上層六角、下層方形で、この辺では異色の建築様式、1859年(安政6年)頃の再建です。また、境内に鎌倉時代後期の花崗岩製「露盤」があります。
 村屋坐弥冨都比賣神社(TEL 07443-2-3308)

 「浄福寺」からまた「蔵堂橋」を渡って、南へ行き集落を抜けると、右手北側奧に旧県社「村屋坐弥冨都比賣(むらやにいますみふつひめ)神社」が鎮座しています。祭神は、三穂津姫命(みほつひめノみこと、弥冨都比賣)と大物主(おおものぬし)命で、主神の三穂津姫命は、「日本書紀」で高天原に最初に現れた造化3神の1神・高皇産霊(たかみむすひ)神の姫神です。大物主命が国譲りをされた時、その功に報いる為と、大物主命に二心がない様にとの願いから、高皇産霊神が大物主命に嫁にやった姫神です。この故事により、当社は縁結びの神、家内安全の神として信仰され、また、大物主命が「大神神社」の主祭神で、大物主命を合祀する当社を「三輪の別宮」とも称します。
 「村屋坐弥冨都比賣神社」の本殿

 「日本書紀」によると、673年(天武天皇元年)7月23日「壬申の乱」の時、村屋神(弥冨都比賣)が神主に乗り移り、大海人皇子(後の天武天皇)軍に「今吾が社(村屋神社)の中ノ道から軍勢(敵の大友皇子の近江軍)が来る。故に、社の中ノ道を防げ」と助言しました。それから幾日も経ずに、近江軍の廬井造鯨(いおいノみやつこくじら)が中ノ道から襲来したが、お告げにより中ノ道は塞がれていたので、難なく勝利し、この功績により、神社として初めて位階を天皇から賜り、現在「正一位森屋大明神」の呼称が残っています。また、境内には町の木「イチイガシ」の巨樹が林立し、樹そうは奈良県指定天然記念物です。
 本光明寺(TEL 0744-32-6960)

 「村屋神社」から西へ向い、県道14号桜井田原本王寺線「千代橋」で左へ折れ、小川沿いに南へ行き、次の辻を右(西)へ行くと、大和北部第83番霊場、真言律宗無量山「本光明寺(ほんこうみょうじ)」です。元は天理市森本町にあったが、由緒不詳で、明治31年廃絶し、本堂は大和郡山市「蓮光(れんこう)寺」に移され、仏像は西大寺を経て田原本町千代の八条中垣内(はっちょうなかがいと)の「勝楽(しょうらく)寺」に移し、後に寺号を「本光明寺」に改称、本尊は「空海坐像」で、室町時代の作。「薬師如来坐像」は平安時代後期の作。重文「十一面観音立像」像高174cmは桧の一木造で平安時代中期の作です。
 曹洞宗「補巌寺(ふがんじ)跡」

 「本光明寺」からまた東へ800m行き、右折して南へ向うと、味間(あじま)集落に宝陀山「補巌寺」の跡があります。元は律衆「光蓮寺」で、1384年(至徳元年)奈良興福寺大乗院方の国民十市遠康と思われる僧の了堂真覚が建て、1393年(明徳4年)竹窓智巌が二世で、以後曹洞宗了堂(りょうどう)派の本寺として栄え、室町時代には十市(といち)氏の菩提寺です。戦国時代十市遠勝の時、松永久秀に焼かれ、江戸時代には領主籐堂氏の祈願所として平穏に過ぎたけど、1858年(安政5年)本堂を焼失して以後衰退し、今は山門と鐘楼を残すのみで、山門の脇に「世阿弥(ぜあみ)参学之地」の碑が建っています。


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