佐保、佐紀路辺り その1

 奈良女子大学(TEL 0742-20-3220)

 佐保路の出発点は、近鉄奈良駅の上、「奈良ラインハウス (Line house)」の角にある石碑「聖武天皇陵左六丁、元明、元正天皇陵左廿丁」を見て北へ歩くと「奈良女子大南門」に突き当り、正門は東側にあり、「奈良女子大」は昔の奈良奉行所跡に明治41年3月奈良女子高等師範学校として設置され、正門を入って正面に明治42年10月に建てられた「旧本館(記念館)」があります。木造2階建てで、1階正面中央に玄関ポーチが付き、内部は1階中央に廊下が通り、両側に校長室、応接室等があり、2階は広い一室の講堂でした。外壁は木材で模様をあしらい、桟瓦葺屋根は中央に塔屋を設け、明かり採り窓が6箇所あります。
 聖武天皇佐保山南陵

 「奈良女子大学」の正門(重要文化財)の前を北へ行って道路を渡り、更に真っ直ぐ進んで「佐保川」の「法蓮橋」を渡ると、一条通りの北に見えているのが「聖武天皇佐保山南陵」です。第45代聖武天皇は、名が首(おびと)、第42代文武天皇の第1皇子で、母は藤原不比等の娘の宮子です。天皇は、唐の文物を取り入れて国政の充実をはかり、また仏教を深く崇敬(すうけい)して、国分僧・尼寺、総国分僧寺の東大寺を建立し、大仏を造立して、天平文化を開花させ、756年(天平勝宝8年)56歳で崩御されました。法号は勝満。なお、御陵の祭祀を中世には、東大寺が行っていましたが、現在は宮内庁が管轄しています。
 光明皇后佐保山東陵

 「聖武天皇陵」の長い参道の途中から右へ進むと、隣が「聖武天皇皇后天平應眞仁正皇太后佐保山東陵」です。光明皇后は、藤原不比等の三女で、母は県犬養橘宿禰三千代、聖武天皇の母・宮子とは腹違いの姉妹です。名は、安宿媛(あすかべひめ)、光明子(こうみょうし)、聖武天皇は甥子で共に飛鳥時代701年(大宝元年)に生まれ、729年(天平元年)長屋王の変の後、臣下で初めて皇后になり、女帝・第46代孝謙天皇の母で、施薬院、悲田院を設置して難民の救済事業を行い、また、仏教の振興にもつとめました。正倉院に自筆の「楽毅論(がくきろん)」等を残し、760年(天平宝字4年)7月6日崩御されました。
 眉間寺(みけんじ)遺跡

 「聖武天皇佐保山南陵」から「一条通り」を少し西へ行って、直ぐ右に曲がり北へ向うと、佐保保育園の前を通って坂を上った「奈良地方気象台」の門前に、道を挟んで「眉間寺遺跡」碑が建っています。現在、寺院の痕跡はなく、碑だけですが、律宗佐保山「眉間寺」は、聖武天皇御願・行階僧都の開基と伝えられ、古は「眺望寺」とも云い、1164年頃(長寛年代)化人が現われて眉間より光明を放つこと半時ばかりにして化し、その跡に舎利2粒があったので、勅により「眉間寺」と称し、東大寺「戒壇院」の末寺で、鐘楼や「多宝塔」等も建っていたが、1862年(文久2年)寺院が撤去され、明治維新で廃寺になりました。
 多聞城跡(現在、奈良市立若草中学校)

 また、聖武天皇陵の前まで戻って、佐保川沿いに東へ行くと、北側の眉間山に若草中学があり、校門を入った石段の右に「多聞城跡」の石碑が建っています。1559年(永禄2年)松永久秀筒井順慶を破って大和へ入り、ここに四層の多聞櫓をもつ城を築き、外壁は塗り込めの長塀や石垣で、堀を巡らし、郭内に家臣の邸を置くと、1563年(永禄6年)に来日した宣教師ルイス・フロイスが驚いて本国へ報告したが、久秀が織田信長に逆らって城を出た後、明智、細川、柴田、羽柴、山岡景佐が入城し、1574年(天正2年)3月23日信長も検分で滞在して、正倉院の香木・蘭奢待(らんじゃたい)を削り、香を聞きました。




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