金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その11

 良玄禅寺(りょうげんぜんじ、雲幻寺)

 「春岳院」から東へ行くと、「茶町」に臨済宗妙心寺の末、瑞龍山「良玄禅寺」があります。1639年(寛永16年)4月本多政勝が姫路から郡山に移封のとき、かって祖父忠勝、父忠朝が封地の上総国大多喜(現在の千葉県夷隅郡)に営んだ「良幻寺」を郡山に移し菩提寺としましたが、1671年(寛文11年)10月58歳で政勝が亡くなって数年後、1685年(貞亨2年)旧本多氏と姻戚にあった本多忠平が郡山へ入部し、下野宇都宮から菩提寺「雲幻寺」を移して「良玄寺」を廃しました。しかし、昭和56年6月に「雲幻寺」からまた「良玄寺」に戻し、今は「良玄禅寺」です。境内に芭蕉の句碑「時雨塚」があります。
 平城京「羅城門(らじょうもん)跡」

 「良玄禅寺」から北へ行き、大通りへ出て東へ向うと、JR大和路線を越え、佐保川に架かる羅城門橋の真下辺りが平城京朱雀大路の南端で、「羅城門」の跡(大和郡山市観音寺町)と比定され、碑は橋の東側、奈良市西九条町に建っています。「続日本紀」によると、「羅城門」は暁鼓と共に開き、夜鼓が鳴り終わると閉じ、門の付近で、京内に疫病が入らない様に道餐祭が行われ、平城京の表玄関として、新羅や唐からの外国使節を迎える際に重要な役割を担ったと云われ、昭和44〜47年の発掘調査で、門基壇等が出土しました。また、平成18年の調査で、「羅城」は羅城門を中心に東西約1キロに渡る木造瓦葺の板塀でした。
 史跡「平城京西市跡」

 「羅城門跡」からまた西へ戻り、バス停「小川町」からバス通りを北へ行き、バスが右(東)へ曲がった直ぐの所に道路に面して史跡「平城京西市跡」の碑が建っています。西市(にしいち)は、平城京右京八条二坊内に造られた官営の市場です。左京八条三坊内にあった「東市」と並んで平城京の生活物資の流通と商業の中心で、「西市」は月の後半15日間開催され、物資の運搬に近くの秋篠川が利用され、万葉集にも、

 西の市に ただ独り出でて 眼並べず
 買へりし絹の 商じこりかも  巻7−1274
 平城京西市船着場跡(秋篠川、西の堀川)

 中国の西安(唐の都、長安)から友好のために来た白い狛犬(名は、長安)が座っている「西市跡」から東へ行って、秋篠川の柳橋を渡らずに、川に沿って大規模自転車道奈良西の京斑鳩線を上流へ辿ると、直ぐ「西市船着場跡」です。平城京などの古代の都城には京の南端近くに朱雀大路を挟んで東西2ケ所に朝廷が管理する市場が設けられ、その市場へ物資を運ぶため市(いち)に接して運河(東堀川、西堀川)が造られました。ここ西堀川(秋篠川)は、平城京造営時に条坊に合わせて直線化された人工河川です。佐保川より溯って西市(今の大和郡山市九条町)へ物資を運ぶ水路として活用され、薬師寺造営にも利用されました。




奈良観光表紙に戻る  大和郡山周辺図を開く  前のページに戻る   次のページに進む