佐保、佐紀路辺り その2

 眉間山(佐保山)の南を流れる「佐保川」

 若草中学へ登らず、右へ折れて、大きな桜の木と、多聞町の玉鐵稲荷神社の横を通り、先の道へ出たら左へ折れると、「佐保川」です。春日山の東側、鶯ノ滝に源を発し、若草山の北方を西流し、更に南流し、水谷(みずや)川、率川岩井川を合わせ大川(大和川の上流)になる川で、昔は千鳥や蛍の名所でした。川沿いに進み、若草新橋を渡って直ぐ左(東)へ折れると、国道369号線の手前に「北向地蔵」が20躰ばかり祀られ、国道へ出たらバス停「今在家」です。

 佐保川の清き川原に鳴く千鳥かはづと二つ
 忘れかねつも     万葉集巻7−1123
 五劫院(TEL 0742-22-7694)

 バス停「今在家」から東へ約300m行くと、東大寺の北門があった北御門町に華厳宗・思惟(しい)山「五劫(ごこう)院」があります。なお、五劫の5分の1が一劫で、43億2千万年、天女が40里立方の大盤石に3年に1度舞い降り、石を撫で、それを繰り返し、ついに石がすり減って無くなるまでの気の遠くなる様な年月で、国重文の本尊「木造五劫思惟阿弥陀如来坐像」は、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩の頃に人々を救うため四十八願を立て、「五劫」の間ひたすら思惟(しゆい)と修行を重ねておられた時の姿を表し、長年月を象徴する様に螺髪(らほつ)をうず高く積み、俊乗坊重源が宋から持ち帰った3体の内の1体です。
 龍松院公慶(りゅうしょういんこうけい)墓

 俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人は鎌倉時代に東大寺を再興し、東大寺北御門前に一堂を建立して、「五劫思惟弥陀坐像」を安置しましたが、今の「五劫院」の本堂は、1624年(元和10年)再建され、10間四方、寄棟造の阿弥陀堂で、本堂の横に「開山重源上人之碑」がありますが、墓は別で、また、本堂の裏奧に「造東大寺勧進上人」と刻まれた「公慶(こうけい)上人」の五輪塔があります。丹後宮津の人、公慶上人は、1567年(永禄10年)の兵火以来、200年以上露座だった大仏の姿を嘆き、全国に勧進を行い大仏殿再興を進めたが、1709年(宝永6年)の大仏殿落慶を見ずに亡くなりました。
 「見返り地蔵」と「朝日地蔵」

 「五劫院」の本堂の横を通って裏の墓地へ入る所の小さな祠の中に石仏が2体祀られ、向って左側のちょっと黒い石仏が「見返り地蔵」で、右側が錫杖を持った「朝日地蔵」です。少し首を傾けた「見返り地蔵」は「誰も忘れものはないか」「誰も置き去りにしていないか」と、何度も振り返りながら衆生の心配をして下さる有難いお地蔵さんで、なお、地蔵菩薩は、釈迦が入滅後、弥勒が如来になるまでの間、この世で人々の救済にあたる仏で、昔印度に二人の国王がいて供に釈迦の説法を聞き、1人の王は早く悟りを開いて一切智成如来になり、もう1人の王は地蔵菩薩になり、迷い苦しむ人々を導いてから如来になる事を誓いました。
 県指定文化財「旧細田家住宅」

 「五劫院」の斜向かいに「旧細田家住宅」があり、旧奈良町と農村の境界付近に位置し、大和棟(やまとむね)の外観をもつ小規模な農家住宅です。内部は東側の二間半を土間に、西側の二間半を居室にとって、かっては更に西側に落棟(おちむね)座敷が増築されていました。建築年代は、はっきりしませんが主屋は17世紀に遡るものと考えられ、18世紀には土間や「台所」の境に鴨居(かもい)を入れる等して改造されています。「庭」と「部屋」の間に壁が設けられ、「台所」と「土間」の間は開け放され、これらの構造は、特に古い形式を示しており、奈良市内の農家住宅の中でも最も古いものの1つとして貴重な建物です。
 空海寺(TEL 0742-22-2096)

 「五劫院」の南100mと云うより、東大寺「正倉院」の北200mの所、奈良市雑司町に華厳宗五岳山「空海寺」があり、820年頃(弘仁年代)空海が開き、空海作の本尊秘仏「地蔵菩薩石像」を、堂内の石窟に安置、俗に「穴地蔵」と称し、他は、1734年(享保19年)本堂再建時に草堂および石窟石仏の座壇石が破壊して、空海が造立の霊窟も失われました。なお、本堂の斜め前に立っている「地蔵十王石仏」は元矢田寺の「矢田地蔵」で、明治初期近くの笹鉾町の「常福寺(現廃寺)」から当寺に移され、光背に十王、閻魔閻羅、地獄の審判官らを従え、また、当寺は志賀直哉著「蘭齊歿後」の末尾に美しく描かれています。
 三角五輪塔「俊乗坊重源之墓」

 「公慶上人」の遺骸は、「五劫院」の裏に葬られているけど、開山の重源(ちょうげん)上人のお墓は、「五劫院」から北東へ約500m上った三笠霊苑(奈良墓地公園)にあり、ここは昔、伴寺(ともでら)とも云う大伴氏の氏寺「永隆寺跡」で、今はその一区画が東大寺の墓所です。墓所内に高さ1.7m、鎌倉時代初期の花崗岩製三角五輪塔があり、「俊乗坊重源之墓」で、元は俊乗堂の近くにあったのを、1703年(元禄16年)ここへ移転しました。なお、五輪塔の起源は中国で訳された経典「尊勝仏頂修瑜伽法軌儀」に基づき、平安時代末日本で生れ、通常の笠は4面ですが、重源上人関係の五輪塔は、古い型の3面です。
 戦国武将「島左近(しまさこん)尉墓所」

 なお、「俊乗坊重源之墓」の斜め前に「島左近」のお墓があります。島清興(きよおき)、通称島左近は、大和平群谷の出自で、名は勝猛(かつたけ)・清胤・友之・昌仲とも称し、筒井順慶の下で松蔵右近と共に「筒井の左近右近」と並び称され、筒井家の伊賀移封後、筒井定次の元を離れて石田三成に高禄で招聘され「三成に過ぎたるものが2つあり、島の左近に佐和山の城」と歌われ、筆頭家老を務めて石田三成の軍師、関ヶ原の前哨戦「杭瀬川の戦い」で小戦ながら東軍方中村一栄を破ったけど、翌日の決戦「関が原の戦い」で黒田長政隊の銃撃を受けて負傷し、以後消息不明。なお、お墓は、陸前高田、京都、対馬にもあります。
 国史跡「北山十八間戸」

 三笠霊園から坂を下りて、歴史の道を北へ行き、佐保川を渡り、川沿いに左(西)へ行くと、旧京街道、奈良阪の三叉路の角が「お好み焼・三角屋」さんで、頼んで入った裏が東西128mの「北山十八間戸」です。鎌倉中期に、癩病患者を収容する為、忍性が初め般若寺の北東に建てたが、1567年(永禄10年)大仏殿と共に戦火で焼け、1660年代(寛文年間)奈良奉行中坊時祐によって、東大寺、興福寺の堂塔が南に望まれるこの地に鎌倉時代の遺風を受け継いで再建された我が国初の病棟で、18の間に仏間も設け、裏に「北山十八間戸」と縦に刻書があり、昭和20年代には大阪の空襲で被災した人達が住んでいました。
 奈良坂の「夕日地蔵」

 「北山十八間戸」から奈良阪を北へ上がった直ぐの右(東)側に、奈良市興善院町の「夕日地蔵」が立っています。永正6年(1509年)4月興福寺住尼推律師の銘があり、合津八一(秋艸道人)が「なんきんうたまくら」の中でこの地蔵さんの事を歌っており、

 ならざかの いしのほとけの
 おとがひに こさめながるる
 はるはきにけり

なお、この地蔵さんは「夕日地蔵」ですが、「朝日地蔵」は東大寺の北、雑司町の「空海寺」にあります。
 奈良少年刑務所

 「北山十八間戸」から北に上がると「般若寺」ですが、西にちょっとそれると、少年刑務所含む全国67刑務所の中で最も古い建物「奈良少年刑務所」が在ります。明治41年完成で、当時の金で30万円を費やし、7年かけて建設され、司法関係専門の建築家で、ジャズピアニスト山下洋輔の祖父・山下啓次郎が欧米諸国の監獄を視察し、刑務所に「更正する為の場所」と云う理念を取り入れて設計しました。ハビランドシステムと云われる建物配置で、敷地12ヘクタールの中央に立つと、1点から全体が監視され、塀の内に実習室、運動場もあり、定員730人なのに初犯の受刑者約850人が罪を償い社会復帰を目指しています。




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