奈良南西部 西の京  その10

春と秋に公開される西大寺の「愛染堂」

 巨大な基壇の西に建つのが西大寺の「愛染堂」で、1763年(宝暦13年)京都の近衛政所御殿を移築した物です。堂内に安置されている秘仏、厨子入愛染明王座像(国重文、鎌倉時代作)は、叡尊さんが仏師善円に造らせた小像ですが、「元寇の変」の時に蒙古襲来で日本中がてんやわんやで恐怖に振るえている最中、叡尊さんがこの像に祈ったら、像の左手に持っていた矢が北九州の多々良(たたら)浜へ飛んで行き、蒙古の大将の胸を射止めました。それゆえ愛染明王は現在8本の手の内、左手の上から2本目に何も持っておられません。また、堂内には眉毛の長い叡尊さんの写実的な木造興正菩薩像(国重文)なども在ります。
 興正菩薩(叡尊)お手植えの「菩提樹」

 西国愛染霊場、第十三札所、西大寺「愛染堂」前に興正菩薩(叡尊)お手植えの菩提樹(ぼだいじゅ)が植わっています。なお、お釈迦さんが樹下にて悟りを開いたクワ科の天竺(印度)菩提樹と異なりますが、推定樹齢700年、ナシノキ科の落葉高木で、中国が原産です。初夏には葉腋(ようえき)から花柄(はながら)が伸びて、約20個ほどの芳香を放つ淡黄色の小さな五弁の花が咲き、9月頃に直径約8mmの「菩提子」と呼ばれる球形の果実がなり、それを数珠玉にして、腕輪型のお念珠を作り、ファッション感覚で、運勢のパワーアップのお守りとして、隣の「大黒天」が祀られている小さなお堂の所で販売されています。
境内の西南隅にある「叡尊」さんの石像

 叡尊さんは、鎌倉中期の高僧で、字(あざな)は、思円。謚(おくりな)は、興正(こうしょう)菩薩。1201年(建仁元年)大和ノ国、箕田ノ里(奈良県大和郡山市)に生まれ、1217年(建保5年)奈良東大寺で剃髪(ていはつ)し自誓受戒を行い、京都の醍醐寺、和歌山の高野山、奈良の東大寺、興福寺等で修行して、もっぱら、弘法大師の空海さんが開かれた真言密教を学び、その間に戒律の衰退を嘆かれ、たとえ宗学に通じても、淨戒を保たなければ諸善の功徳を増長する事が出来ないと悟り、その復興を志して西大寺にお入りになりました。以来朝野の帰依者は多く、その名は幕府も知る所となり鎌倉へも招かれました。
 奈良市指定文化財「西大寺の鐘楼」

 境内の南西に建つ写真の様な西大寺の「鐘楼」は、幕末又は明治の初め頃に摂津(大阪府)の多田院から移されたもので、軒下や縁の下に三手先組物を用いた華やかな建物です。現在は、上階の柱間が開放されていますが、当初は連子窓や扉の付いていた事がそこの痕跡から判っています。はっきりとした建立の年代は明らかでは有りませんが、摂津の多田院が1670年代(寛文年間)に復興されている事が知られており、この時期に西大寺へ移築されたものと考えられます。大きさは桁行3間、梁間2間で、袴腰付の入母屋造、本瓦葺の「鐘楼」全体の姿から細部までよく整って、質の高い建物だから昭和63年3月市文化財に指定。
 「四王堂」、邪鬼の1匹は天平時代の作

 なお、「本堂」に向かって右、「東門」の方へ行くと、「四王堂」です。764年(天平宝字8年)9月11日恵美押勝(藤原仲麻呂)の謀反が発覚し、近江へ逃走した日、称徳女帝が勅願して、翌年建立された「西大寺」に、最初に鋳像された金銅7尺の四天王像を安置する為に建立され、三像は無事に鋳造されたが残り一像が六回鋳造しても出来ず、困り果てた女帝が玉手を鎔銅の中に入れて攪き廻すと、事もなげに出来ましたが、今の像は、1502年(文亀2年)兵火で焼失の後に造られた重文の「四天王立像」で、元京都市内にあった「法勝寺」の重文「木造十一面観音立像(丈六以上長谷寺式)」を本尊として囲んでいます。
 西大寺石落(いしらく)神社

 「西大寺」の「東門」を出て直ぐの所、道を挟んで「西大寺石落神社」が鎮座しています。この場所は、「西大寺」の境内飛地であり、神社は西大寺の鎮守社として1242年(仁治3年)西大寺中興の祖、興正菩薩(叡尊、えいそん)によって祀られたのが始まりとされています。本殿は、写真の様に一間社で、正面には階段を設けないで一面に床を張る春日見世棚造になっており、屋根は桧皮葺、装飾の少ない簡素な建物ですが、古式の要素を各所に見せ、風蝕も著しく、建立年代は室町時代の中頃と考えられ、奈良に多い見世棚造小社殿の中でも特に年代の古いものとして貴重なもので、昭和63年3月3日奈良市指定文化財です。
 西大寺の奥院「体性院(たいしょういん)」

 「西大寺」の「北門」を出て、右(西)へ200m行くと、四つ角の北西に「野神神社」が鎮座し、北へ約1キロ行くと、「秋篠寺」へ至りますが、更に西へ行って直ぐ北へ入ると、西大寺の奥院「体性院」で、境内に「叡尊(えいそん)」の墓と云われる鎌倉時代後期の大きな「石造五輪塔」が建っています。なお、叡尊は、興福寺学侶の慶玄を父にもち、高野山、長岳寺、興福寺などに転じ、1235年(文暦2年)5月16日初めて「西大寺」に移住して以来、戒律の普及と伽藍の復興に力を注いで、1290年(正応3年)8月25日西大寺において90歳で没するまで、南都仏教に大きく寄与し「興正菩薩」と贈号されました。
 鋳物師池跡

 「西大寺」から西へ行き、北の奧院の「体性院」へ入る角が公園で、北側に「鋳物師池跡」があります。なお、公園は、元々ここにあった野神池(鋳物師池)を埋め立てて造られたもので、旧池は南北約60m、東西40mの規模をもち、古くから灌漑用に使われていました。鎌倉時代の絵図に「奉鋳四天池」と記されて、西大寺の草創期に重要な係わりをもつ「金銅四天王像」が鋳造された由来を示す池と言われ、江戸時代の絵図にも「鋳師池」とか「鋳物師池」とも記され、昭和59年奈良市が緑地整備に伴って発掘調査を行ったら、奈良時代の土器と共に炉体、ふいごの羽口、鋳物屑などが出土して、鋳物工房跡と推定されました。
 国重文の本殿をもつ「八幡神社」

 また、「野神神社」の所まで戻って、南へ200m行くと、右(西)側の奧に西大寺の鎮守「八幡神社」が鎮座しています。当社は奈良時代の昔から西大寺の鎮守として奉齋されていた事は、古図によって知られますが、現在のように「八幡神社」として整備されたのは、西大寺中興の祖、叡尊上人の発願によるもので蒙古襲来時の1281年(弘安4年)頃と考えられ、当時は僧形の八幡神像が祀られていました。その頃、西大寺では毎年修正会の後1月16日に鎮守八幡宮の社前で御祈祷があって、参拝者に湯茶の大ふるまいがなされました。これが現在有名な「西大寺の大茶盛」の由来で、その起源は「八幡神社」で始まりました。




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