佐保、佐紀路辺り その14

 国史跡「瓢箪山古墳」

 「塩塚古墳」から更に南へ約400mほど行くと、やはり佐紀古墳群の1つ「瓢箪山古墳」があります。前方を南に向けた前方後円墳で、墳丘の全長96m、後円部径60m、同高さ10mで、前方部幅45m、同高さ7mです。墳丘の周囲に前方部の南西を除いて周濠が巡らされていますが、南西には隣接する「丸塚古墳」がある為、先に築かれた「丸塚古墳」を避けています。また、墳丘の一部と周濠に葺石(ふきいし)が施され、墳丘から円筒埴輪の遺存が確認されたが、量は少なく、古墳の築造年代については、墳丘の形態等から古墳時代前末期〜中期初頭、すなわち、4世紀末〜5世紀初頭の古墳でないかと推定されています。
 佐紀で最大の「神功皇后陵」

 「瓢箪山古墳」の北から西へ向い、近鉄京都線「平城駅」の踏切を渡って北へ向うと、1863年(文久3年)神功皇后陵に治定された「狭城盾列池上陵(さきノたてなみいけノへノみささぎ)」、五社神(ごしき)古墳があります。全長275m、濠があり、東にある「磐之媛命陵」よりも古く、古事記によると神功皇后は、近江の息長氏の出で、名を息長帯比売命(おきながたらしひめノみこと)、仲哀天皇の皇后で、天皇が筑紫で崩御した後、子(後の応神天皇)を宿した腹に石を結んで出産を押さえ、表筒男命(うわつつノおノみこと)、中筒男命、底筒男命ら住吉三神の助力で、福岡玄海町から朝鮮半島の三韓に遠征しました。
 稱徳(しょうとく)天皇高野陵

 「神功皇后陵」の西側を南北に通る「歴史の道」を北へ行って左(西)へ折れ、奈良大学付属高校の横を通って西へ向かうと、秋篠寺ですが、「歴史の道」を南へ戻り、近鉄京都線の踏切を渡って真っ直ぐ南へ行くと、女帝「稱徳天皇高野陵」です。佐紀古墳中ではやや小形の古墳で、他の佐紀古墳群の主軸がいずれも南北方向なのに「稱徳天皇陵」は東西方向で、西から東向きに拝します。なお、稱徳天皇は聖武天皇の第二皇女、奈良朝4代目の第46代孝謙天皇で、764年(天平宝字8年)重祚(ちょうそ、一度位を退いて再び天皇になる事)し第48代稱徳天皇に成って、在位中に弓削道鏡を重用し、53歳で崩御されました。
 西隆寺(さいりゅうじ)回廊跡

 「稱徳天皇陵」の前、「秋篠川」を渡った所が奈良ファミリーで、更に西へ向うと、近鉄大和西大寺駅ですが、奈良ファミリーの裏(北側)へ廻ると、ビル側面の一画をくり抜いて「西隆寺回廊跡」があります。767年(神護景雲元年)称徳女帝が造営長官、次官を任命して建てた尼寺で、平城京右京一条二坊に4町を占め、東西、南北それぞれ約250m内に、金堂、三重塔、回廊、厨(くりや)、東門、南面築地塀の跡が見つかり、ここに復元されたものは、金堂を囲む回廊の東北隅の部分で、玉石列は回廊の基壇の縁石で、更にここは、尼寺跡なのに胎児を包んでいた膜と胎盤を入れた胞衣壺(えなつぼ)が埋められていました。




奈良観光表紙に戻る  佐保路の散策図を開く  前のページに戻る   次のページへ進む