山背(やましろ)古道  その4

 不成柿(ならずノかき)

 「大智寺」からまた少し南へ戻って、東へ進みJR奈良線のガードの手前で北側の住宅地へ入って行き、右(東)奥に進むと、「不成柿」が植わっています。東大寺と興福寺を焼き払い、一ノ谷の合戦で源氏方に捕らえられ、木津川の河原で処刑された平重衡(たいらノしげひら)が、首を跳ねられる際に、この世の名残に柿を食べましたが、それを見た里人が哀れに思い柿の種を植えると、芽が出たけれども、実が成らず、そこで何時しか「ならずの柿」と呼ばれました。でも今は木が代替わりして、秋になると小さな実が沢山成ります。また、「不成柿」の木の右(南)側に重衡の首を洗った池がありましたが、今は埋まっています。
 安福寺(あんぷくじ)

 「不成柿」の所から又南の車道へ出て、東へ行くとJRの線路の下をくぐって直ぐの左側に「安福寺」があります。「東大寺大仏殿」や「興福寺」焼き討ちの罪に問われ、1185年(元暦2年)6月13日南都の衆徒によって30歳で処刑され、首を般若寺にさらされた平重衡(たいらノしげひら)の供養の為に建立されたお寺で、別名「哀堂(あわんどう)」とも称します。山門をくぐって入った境内の右(東)側には、重衡の引導仏と云ういわれをもつ「阿弥陀如来像」を修めた「哀堂」があり、また、境内の左(西)側には重衡を供養する「十三重塔」が建っていて、現在でも春と秋のお彼岸および命日に、供養しておられます。
 平重衡(たいらノしげひら)の供養塔

 平重衡は、1158年(保元3年)平清盛の五男として生まれ、非参議、従三位、本三位中将に進んで、平家方一門の中でも剛勇をもって知られ、1180年(治承4年)5月「以仁王の乱」以来、平家方の中心的な大将軍として度々の合戦に出兵し、同年秋、父平清盛の命による奈良攻め数百騎の軍勢が東大寺と興福寺の僧兵によって追い返され、その内の60人が首を跳ねられ、猿沢池畔にさらされたお返しとして、同年12月25日彼を総大将とする約4万余の軍勢で奈良を攻め、12月28日夜半、風の激しい午後8時頃、戦渦を逃れるため大仏殿にいた老僧や年若い修学者、幼い稚児を大仏さんと供に焼き殺してしまいました。




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