山背(やましろ)古道  その6

 古刹「泉橋寺(せんきょうじ)」

 「泉大橋」を渡って直ぐに、左(西)へ曲がると、土手の下に浄土宗、玉龍山「泉橋寺」の屋根が集落の中に見えます。土手を下り裏から入ると、「泉橋寺」で、本尊は「阿弥陀如来」、740年(天平12年)行基が泉川(今の木津川)に「泉大橋」を架けた時に創建した泉橋院(発菩薩院、隆福尼院)を前身とする寺院で、行基が五畿内に造営した49院の1つです。1180年(治承4年)12月28日平重衡が南都攻めをした時に焼かれて、その後再建されましたけど、14世紀元弘ノ乱でも兵火で焼失したが、境内やその周辺から奈良時代の古瓦が出土して、その時代の塔の心礎も存在し、塔が建っていた事が知られています。
 国重文、泉橋寺の「五輪塔」

 「泉橋寺」の「本堂」北側の横手に、「五輪塔」が建っています。奈良時代、聖武天皇の皇后、光明皇后の御遺髪を祀るために建立された塔と伝えられていますが、そもそも「五輪塔」は、宇宙を形成する根本の要素である空風火水地を現し、上から宝珠形の空輪が空、半円形の風輪が風、三角形の火輪が火、円形の水輪が水、方形の地輪が地で、これらを積み重ね宇宙を象徴的に現した供養塔です。なお、この「五輪塔」は束石(つかいし)の間に羽目石(はめいし)を置き、その上に葛石(かずらいし)の盤を置いてから、框座(かまちざ)の上に複弁の反花(かえりばな)を設けて、その上に高さ212cmで安置されております。
 高さ約4.85m日本有数の「地蔵石仏」

 「泉橋寺」の山門を出たすぐ右脇に「山城大仏」と呼ばれる丈六の大きな「石造地蔵菩薩坐像」が鎮座しています。願主は般若寺の真円上人です。なお、今は露座ですが、1295年(永仁3年)地蔵石材が切り出し初めてから13年後、1308年(徳治3年)に地蔵堂が棟上され、供養された時は、堂内に安置されていました。その後、1470年頃から応仁ノ乱が南山城地方にも及び、1471年(文明3年)大内政弘の軍勢が木津や上狛を攻めて焼き払った時、泉橋寺の地蔵堂も兵火で焼かれて、石仏が損傷し、それ以来、地蔵石仏は、露座のままで、頭部と両腕は江戸時代になって、1690年(元禄3年)に補われています。




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