奈良市の東端「田原」「水間」から「山添村」  その12

 国史跡「毛原廃寺(南門)跡」の礎石

 「八柱神社」から峠を越して南西へ向うと、山添村毛原(けばら)に至り、集落のあちこちに「毛原廃寺跡」が存在します。「笠間川」を眼下に見る山麓に建立した大寺院の跡で、唐招提寺の金堂に匹敵する「金堂跡」や「南門跡」等の礎石が全て1m余りの大きさで、170個ほど当時のままで残っているが、当寺に関する古文書や記録がないので、はっきりした事は解らず、東大寺の大仏殿を建立する為に造られた板蝿杣(いたはえノそま)の支配所でなかったかと考えられているが、いずれにしても見るべきものがあり、出土の軒丸瓦、軒平瓦はいずれも奈良時代後期のもので、岩屋瓦窯で焼かれた事が発掘調査で判明しています。
 「旧毛原寺食堂(じきどう)跡」の礎石

 葛尾(くずお)経由、「名張駅前」行のバスが出るバス停「毛原神社前」の横にも「毛原寺食堂跡」の礎石が纏めて7個置かれています。なお、「毛原寺」の「食堂跡」は、礎石が置かれている所から東へ数十m行った所で、現在は田圃ですが、そこの地下約1mに埋設していた礎石は、昭和13年に運び出されて行方知れずになっていましたが、昭和17年芦屋市の財団法人「黒川古文化財研究所」が貴重な文化財の散逸を防ぐ為、苦心の末一括入手して大切に保管していた事が判り、昭和49年10月同研究所から、国立文化財研究所や県教育委員会を通して地元へ寄贈する旨の申し入れがあり、26年ぶりに現地へ里帰りしました。
 旧指定村社「八阪(やさか)神社」

 「名張駅前」行の最終バスが18:7に出るバス停「毛原神社前」の直ぐ目の前の森の中に「八阪神社」が鎮座しています。主神に建速須佐男命(たけはやすさノおノみこと)を奉祀していますが、創建の年代は明らかでなく、1685年{貞享(じょうきょう)2年}の古文書等の記録によれば、「牛頭天王」の称号をもって代々里人達が氏神として厚く敬仰し奉ると共に波多の天王の郷中となっていて、社頭を飾る巨杉を見ればその起源の深さが偲ばれ、明治初年の神仏分離令で都介野水分神社に属して現在に及び、大正5年の造営に当たり社殿を春日造に改め、紋所は京都「八坂神社」と同じ五瓜唐花の「木瓜(もくごう)」です。




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