五條市  その4

 他戸親王(おさべしんのう)陵

 「吉祥寺」からまた北へ戻って国道168号線から県道55号橋本五條線を西へ行くと、五條市御山町で県道の右(北)側、少し高くなった柿畑の中に鳥居が見え、宮内庁が管理する「他戸(おさべ)親王陵」があります。彼は、761年(天平宝字5年)に生れ、父が白壁王、母が井上内親王、770年(宝亀元年)10月1日父が即位して、光仁天皇、同年11月6日母も皇后になり、翌年(宝亀2年)正月23日皇太子になったが、772年(宝亀3年)3月2日母が呪詛に連座して皇后を廃されると、同年5月27日謀反・大逆人を母にもつとして、皇太子を廃され、775年(宝亀6年)4月27日母親と供に毒殺されました。
 光仁天皇皇后(井上内親王)宇智陵

 「他戸親王陵」からまた西へ向かって、県道55号橋本五條線へ出たなら、道幅の狭い県道沿いに「光仁天皇皇后宇智陵」があります。皇后は、772年(宝亀3年)3月巫蠱(ふこ)大逆の冤罪をきせられ、皇后位を剥奪され、また翌年、宝亀4年難波内親王を厭魅(えんみ)した罪により大和国宇智郡(現在の五條市井上町)の没官の館に幽閉されて、775年(宝亀6年)4月27日59歳で毒殺されました。そして、彼女の怨念により、776年(宝亀7年)9月、20日ばかり夜毎に瓦や石、土くれが降って屋根に積もり、777年(宝亀8年)冬雨も降らず世の中の井戸の水みな絶えて、宇治川の水も既に絶えようとしました。
 真言宗「念仏寺(陀々堂)」

 光仁天皇皇后(井上内親王)「宇智陵」から「県道55橋本五條線」を西へ行って、五條市表野町辺りで北へ向かうと、吉野川の「阪合部橋」の少し手前に、毎年1月14日の「鬼ばしり」で有名な「念仏寺」があります。「念仏寺」は、平安末期か鎌倉時代、領主坂合部氏の氏寺として建てられ、初めは四柱造の瓦葺屋根でしたが、室町時代に現在のような茅葺になっています。なお、「念仏寺」を通常「陀々堂」と呼んでいますが、これは「鬼ばしり」で行われる達陀(だったん)の秘法(松明をかざして飛び散る火の粉で身を清め、災いを焼き払う行)を行うお堂と言うことから「だったん堂」が訛って、「陀々堂」になりました。
 国指定重要無形民族文化財「鬼走り」

 毎年1月14日「念仏寺」で行われる「鬼走り」は500年の伝統を誇る「陀々堂」の修正会結願で行われ、五穀豊穣と除厄を祈願の年頭行事で、過去の罪を悔い身に積もった汚れを払い、新しい年の幸福を祈る阿弥陀悔過法会(あみだけかほうえ)です。午後1時5人の僧による般若経転読で始まり、午後4時に昼の部「鬼走り」は無点火で行われ、4時半に福餅捲き、午後7時堂内で息災護摩供、7時半境内で柴灯護摩供(さいとうごまく)、そして本番が、午後9時松明に点火された「鬼走り」です。父の赤鬼、青の母鬼と、茶の子鬼が点火された重さ約61キロの松根の松明を持って、法螺貝、太鼓、棒打の音と共に踊り出ます。
 犬飼山「転法輪寺」

 「念仏寺」から「吉野川」の「阪合部橋」、または「御蔵橋」を渡って、JR和歌山線と平行に走る国道24号線へ出ると、バス停「国道犬飼」の所に真言宗犬飼山「転法輪寺」があります。弘法大師の空海が、815年(弘仁6年)42歳の時、高野山草創の砌、此の地で狩場明神と邂逅(かいごう)されて、道案内と道中安全守護のため、明神の使者である白黒2犬を賜りました。そして、無事に高野山を開創になって、此の不思議な霊場を後世に傳え末世の衆生を救済せんとお誓いになり、当地の川崎甚左衛門の協力により、直径16mの円墳「明神塚古墳」の上に当山を建立され、以来高野山発祥の霊場として護持されています。
 史跡「待乳(まつち、真土)峠」

 国道24号線を五條から西へ行くと、隣が和歌山県橋本市で、県境に「待乳峠」があり、国道沿いに太上天皇(女帝の持統天皇)が701年(大宝元年)9月紀伊国へ行幸時に詠まれた万葉歌碑が建っています。

 あさもよし 紀人羨しも 亦打山(まつちやま)行き
 来と見らむ 紀人羨(きびととも)しも 巻1−55

 なお、万葉集に真土山を詠った歌は8首あり。また、待乳山の松の木の脂と菜種油で作られていた待乳膏はその昔、弘法大師がここを通って高野山へ向かう時、腫瘍で乳が出ない女人のために調法した霊薬でした。




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