宇陀市榛原から菟田野辺り  その3
 高山右近(たかやまうこん)碑

 伊那佐山の山頂から北へ下る道もありますが、また南の方へ下りて、芳野川に沿った道を南東へ辿ると、榛原町沢の集落で、集落の北東の山腹が「沢城跡」、城跡へ行く道の側に「高山右近碑」が建っています。高山右近は、1552年(天文21年)高山飛騨守の子として生まれ、1564年(永禄7年)6月沢城へ来たイエズス会のロレンソンから家族や家臣らと共に12歳の右近も洗礼を受け、洗礼名はジュストです。その後、彼は豊臣秀吉の臣として戦巧があり、高槻、明石に封じられ、また、彼は茶人としても優れ、利休門下七哲の1人でしたが、禁教後に海外へ追放され、1615年1月8日熱病にてマニラで客死しました。
 沢城址「城山(標高525m)」

 「高山右近之碑」からちょっと北に戻って「ダリヨ&ジュストの道」を東へ約2キロ辿ると「沢城跡」へ至ります。沢城は、秋山、芳野(ほうの)と共に宇陀3将の1人、沢氏の居城で、南朝武士団の沢氏は伊勢国司北畠の被官として、1385年(元中2年)から百数十年続いたが、1560年(永禄3年)松永久秀によって追放され、後に右近の父、高山飛騨守が入城したけど、1580年頃(天正年間)廃城になり、今城跡には、二の丸、三の丸、出の丸、堀割りの跡等が残っています。なお、その他に北側の伊那佐山との境には二重堀や、厩(うまや)谷、また、麓には下城、殿様墓、茶屋谷御館などの地名や跡が残っています。
 榛原区八滝の国史蹟「文祢麻呂墓」

 「ダリヨ&ジョストの道」を少し戻って、城山から尾根伝いに東へ下ると、「文祢麻呂(ふみノねまろ)墓」があります。彼は大海人皇子(後の天武天皇)の舎人・書首(ふみノおびと)根麻呂で、672年6月24日壬申の乱で大海人皇子が吉野宮滝から脱出する際に従い、近江朝の大友皇子を攻める時、近江路正面軍の将軍の1人になって活躍、707年(慶雲4年)9月21日従四位下で没し、1831年(天保2年)34文字が刻まれた鋳銅製墓誌、銅箱、ガラス製骨蔵器、金銅壺が発見され、墓は一辺2.5mの土坑で、堅炭の上に墓誌、骨蔵器などを置き、その周囲を炭、粘土、砂質土で埋め、全体を粘土で覆っていました。
 宇太水分神社(TEL 0745-84-2613)

 「伊那佐山」南麓を流れる「芳野(ほうの)川」沿いに県道31榛原宇陀野御杖線を南東へ辿ると、宇陀市菟田野古市場に大和四水分神の1つ「宇太水分神社中社」が鎮座し、国宝の本殿は、三社造、1320年(元応2年)建立、一間社春日造桧皮葺で、向って右から第一殿に天水分(あめノみくまり)神、第二殿に速秋津比古(はやあきつひこ)神、第三殿には国水分(くにノみくまり)神が祀られています。水分大明神は天照大神の分神で、本殿の右に国重文の末社2棟が並び、春日神社に天児屋根(あめノこやね)命、宗像(むなかた)神社に市杵島姫(いちきしまひめ)命を祀り、境内南東に古市場坐恵比須神社も鎮座します。




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