伊賀上野  その12
 市文化「菅原神社(上野天満宮)」の楼門

 「上行寺」から北へ「寺町通り」を抜け、左に折れて西へ行くと、直ぐ「上野天満宮」が鎮座し、文学、牛馬の神として、「天神さん」の名で親しまれる菅原道真を祀り、旧上野町6千戸の産土神です。往古は、上野山「平楽寺」の伽藍神で、農耕神祇(じんぎ)に発祥する神を祀っていたが、1581年(天正9年)「天正伊賀の乱」後、藤堂高虎による城下建設の際、当地に奉還され、城郭鎮守として祀られました。毎年10月23日〜25日に「上野天神秋祭」が行われ、神輿の渡御に供奉する百数十体の「鬼行列」や、雅調豊かな祭ばやしを奏でながら続く9基の「だんじり」は、400年の伝統を伝えて、県の無形文化財です。
 真言宗豊山派「愛染院(あいぜんいん)」

 なお、「上野天満宮」の「鐘楼」も市の文化財で、1672年(寛文12年)1月俳諧で身を立てることを決意した「松尾芭蕉」が、30番句合わせた処女作「貝おほひ」1巻を社前に奉納し、自らの文運を祈願してから江戸へ下りました。また、「菅原神社」から東へ向い、バス停「農人町」の角を左へ曲がって、北へ行くと、左(西)側に松尾家の菩提寺「愛染院」があります。往古は、現在上野城がある上野山にあった「平楽寺」の子院東ノ坊、1611年(慶長16年)春に始まった城下町建設の際、現在地に寺域を拝領して、遍光山「願成寺」と改称しましたが、愛染明王を本尊とするので、俗に「愛染院」と呼ばれています。
 芭蕉翁(ばしょうおう)故郷塚

 三重八十八ヶ所32番霊場、伊賀八十八ヶ所78番霊場、四国愛染11番霊場「愛染院」の本尊は、弘法大師の作と云われ、醍醐寺仕主憲法僧正が後鳥羽天皇の病気平癒を修法した時、ただちに御願成就し、奇端の霊光を放った尊像です。1185年頃(元暦年間)鏡覚阿者梨が「願成寺」を建立して本尊を安置したが1581(天正9年)「伊賀の乱」で兵火にかかり、その後、再建、中興された当院は松尾家の菩提寺で、過去帳に芭蕉の父母の戒名があり、境内左奥へ入ると伊賀の門人服部土芳と貝増卓袋が芭蕉の遺髪を納めた「故郷塚」があり、芭蕉は、1694年(元禄7年)10月12日大阪南御堂花屋で亡くなり享年51才。
 芭蕉翁生家(TEL 0595-24-2711)

 また、境内に、1694年(元禄7年)7月10日兄の招きで、大津から帰郷した芭蕉が、盆会で詠んだ句碑「家はみな杖に白髪の墓参り」もあり、更に「愛染院」から北へ向い、直ぐ左へ折れて西へ行くと、通りの北側に生家があります。芭蕉は1644年(正保元年)松尾儀左エ衛門の次男として生まれ、本名が松尾忠右衛門宗房(むねふさ)で、初期の俳号を「宗房(そうぼう)」と号して、その後、33才の時に「桃青(とうせい)」と号し、37才の時、「泊船堂(はくせんどう)」とも号し、38才の時、門人の李下(りか)から贈られた植物の名に由来した庵の名「芭蕉」を号にしたけど、全部で13の号が知られています。



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