伊賀上野  その11
 妙典寺(みょうてんじ)

 「万福寺」の斜め前、「寺町通り」を挟んで西側にあるのが本門仏立宗「妙典寺」で、開基恵光院日詠が伊予国において建立し、1608年(慶長13年)に藤堂高虎が伊予から伊賀・伊勢の城主として移封した時、「妙典寺」も伴って当地に移されたと伝えられています。なお、開基の恵光は、藤堂高虎、息子の二代津藩主藤堂高次の帰依僧と云われ、大力無双の勇僧伝が逸話として残されています。なお、日蓮宗の一派、本門佛立宗の開発教導は、日扇(にっせん)聖人で、彼は、始め本門法華宗に帰依(きえ)し、1857年(安政4年)ひたすら題目口唱に専念する本門佛立講を開講して、幕末から明治にかけ、礎を築きました。
 妙昌寺(みょうしょうじ)

 「妙典寺」の前、「寺町通り」を挟んで東側にあるのが、法華宗「妙昌寺」です。寺内に入って直ぐ右に鬼子母神・三十番神を祀る小祠があります。番神の神体は、紀州粉河(こかわ、和歌山県)からの伝来で、1680年(延宝8年)の遷宮と伝えられています。「鬼子母神」は、女神で千人の子持ちでしたが、元は性質が邪悪で、常に他人の子を殺して食べていましたのを、仏が彼女を教化するため、末っ子愛奴を隠し、悲嘆に呉れる彼女を戒め、子を返して、他人の子の代わりに人肉の味がする石榴(ざくろ)を与えました。だから、今では仏に帰依した「鬼子母神」が、手に石榴を持ち、生産と保育の神として信仰されています。
 上行寺(TEL 0595-21-4884)

 「妙昌寺」の北隣斜め前が藤堂家の菩提寺、日蓮宗長栄山「上行寺(じょうぎょうじ)」で、歴代藩主の位牌や「紙本著色藤堂虎高(高虎の父)画像」等を所蔵し、創建は、1588年(天正16年)藤堂高虎が1万石で初の城持大名となった紀州粉河で、以後は、高虎の転封に伴ない伊予を経て当地に定着しました。なお、高虎は1556年(弘治2年)正月6日近江国犬上郡在士村(甲良町)で虎高の二男として生まれ、母は多賀大社の代官の娘とら、8歳の頃既に6尺3寸(191cm)もあり、15歳で浅井長政に仕え、姉川の合戦で初陣、後に豊臣秀長に仕え、秀長の死後、秀長の養嗣子秀保の死に遭い、高野山に籠りました。
 中央が初代藩主「藤堂高虎」墓

 後に高虎は、秀吉より伊予板島7万石を給封され、朝鮮出兵で水軍を指揮したけど、1600年(慶長5年)関ケ原の戦では東軍に属し、戦功により伊予今治20万石に封じられ、1607年(慶長12年)和泉守を称し、翌年伊賀1国と伊勢の数郡22万余石で津に転封され初代城主になり、1615年(元和元年)大阪夏の陣で危機に陥った家康を助けた功によって、1616年(元和2年)27万3千余石、大阪城修復等で翌年32万3千余石に加増され、家康の没後に、東叡山寛永寺を建立し、領国伊賀上野の名をとって、その付近一帯を上野と称し、1630年(寛永7年)10月5日江戸藩邸でその生涯を終え、享年75歳。



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