伊賀上野  その14
 田圃の中の「脇坂八幡神社」の跡

 また、「伊賀信楽古陶館」から西へ行くと、「上野高校」、「旧崇広堂」の前を通り、坂を下りると「鍵屋ノ辻」で、更に西へ行くと、「木津川」の「長田橋」を渡った左(南)側、田圃の中の小丘に石碑「脇坂八幡神社」があり、北東に城の天守閣が見えます。水害で流された神社の跡で、現在上野に「脇坂八幡神社」はありません。なお、脇坂と云えば、平清盛が建立した「上野山」の「平楽寺」が、1581年(天正9年)9月織田軍の「天正伊賀の乱」で焼かれ、その後滝川雄利が最初の上野城を築き、本能寺で信長が倒れた翌年、1583(天正11年)脇坂安治が滝川氏を攻めて上野城を奪ったけど、直ぐに洲本へ移されました。
 「射手(いて)神社」の「十三重塔」

 なお、「鍵屋ノ辻」から西へ来て、国道163号線に出合い、横断して右(北)へ向かうと、直ぐ左手に「射手神社」が鎮座しています。第40代天武天皇の御代、射手山に勧請され、祭神は、應神天皇他十四神を合祀。1184年(寿永3年)1月源義経、範頼が木曽義仲追討のため京へ向う途中、「射手とは縁起がよい」と下馬し矢を奉納して、戦勝を祈願しました。また、西行法師も源平戦乱の時、伊勢に疎開し、度々参拝して「あづさ弓ひきし袂もちからなく射手の社に墨の衣手」と詠んでいます。なお、鳥居の左右に十三重塔があり、南側の国重文「南方塔」は、南北朝時代の作で、塔身に金剛界四仏の種子が刻まれています。
 常住寺(じょうじゅうじ、伊賀聖天)本堂

 「射手神社」から南へ行って、国道163号線を渡り、更に南へ向うと、天台宗平野山「常住寺」があります。平安時代に僧尊恵が「閻魔大王」の像を当地にもたらして草創、東海近畿地蔵礼場第七番札所です。境内の県文化「閻魔堂」は、1660年(万治3年)藤堂藩二代藩主高次により生母松寿院の十三回忌に建立され、桁行3間、梁間3間、1重、入母屋造、本瓦葺の比較的小さな御堂ですが、和様を基調とした本格的な仏堂建築で、柱は丸柱で上に斗供を組み、中備に蟇股を飾り、外部は全体に弁柄塗で、部材の木口や彫刻部にも色彩が施され、内陣中央の須弥壇上で「木造閻魔坐像」を安置する「木造厨子」も又県文化です。



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