「曽我川(広瀬川)」 JR大和路線「法隆寺駅」から南へ向い、大和川の御幸大橋を渡って左へ曲がり、川沿いに東へ行くと、大和川に「不毛田川」が南から北へ向かって合流し、更に大和川の上流では「曽我川(広瀬川)」「飛鳥川」が流れ込み、下流では「佐味田川」も南から合流し、この辺りは、大和盆地を流れる総ての河川が大和川に合流しています。なお、「曽我川(広瀬川)」は、南の上流で写真の様に「葛城川」と「高田川」に分かれ、また、「曽我川(広瀬川)」は、万葉集にも詠われて、 廣瀬川 袖つくばかり 浅きをや 心深めて 我が思へるらむ 巻7−1381 |
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廣瀬神社(TEL 0745-56-2065) 小さな「不毛田川」と「曽我川」に夾まれた地点に治水と五穀豊穣を司る「廣瀬(ひろせ)神社」が鎮座しています。創建は崇神天皇の時と云われ、675年 (天武4年)4月10日使を遣わして、風神を竜田の立野に祀り、大忌(おおいみ)神を広瀬の河曲(かわわ)に祀り、以来4月と7月に両神を祀られ、当社の主神は水稲の守護神・若宇加能売命(わかうかのめノみこと、大忌神・広瀬河合神とも云う)、相殿が櫛玉命(くしたまノみこと)と穂雷命(ほノいかづちノみこと)で、御神徳は、衣食住を守護し、治水を司り、特殊神事は、2月11日の御田植祭(砂かけ祭)で、氏子区域は、旧廣瀬郡(今の河合町、広瀬町)です。 |
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廣瀬神社「本殿」 「廣瀬神社」は、大和川の対岸に鎮座し風神を祀る「龍田大社」と共に「日本書紀」に登場して、国家の重大時に朝廷から奉幣使(ほうへいし)が遣わされる22社の1つでしたが、1506年(永正3年)の戦乱で本殿以下を焼失して、現在の建物は、1711年(正徳元年)に造営され、本殿は県文化財で、一間社春日造の檜皮葺、桁行が3.1mある豪壮な社です。なお、二の鳥居に掲げられた「廣瀬社」は、郡山藩主柳澤保光の筆です。また、「砂かけ祭(お田植祭)」は、牛役と田人(牛遣人)が田作りの所作をする時、拝殿前の砂を両人と参拝者が掛け合い、砂が雨を表し掛け合いが盛んなほど豊作になると云われています。 |