北山の辺の道  その8−3

 在原神社(在原寺跡)

 「高良神社」からまた表通りへ出て、南へ500m進んで「西名阪自動車道」の下をくぐり、東へ行くと「在原神社」が道の右側に鎮座しています。ここは、平安朝の始め、平城天皇の御子、阿保親王が835年(承和2年)石上領の平尾山にあった光明皇后創建の本光明寺を移して本光明山補陀洛院「在原寺」とした跡です。明治初年まで、本堂、庫裏、楼門等があったけど、本堂は大和郡山若槻の西融寺に移されて廃寺となり、現在は阿保親王と在原業平の親子を祀る神社が建っています。社殿は、大正9年に修理改築された、1間社寄母屋造で、正面千鳥破風および1間向拝付と云う変わった造で、元々は紀州候が寄進の物でした。
 伊勢物語の「井筒」

 在原業平は、第51代平城天皇の皇子、阿保親王の五男で、兄の行平と共に在原姓を名のって臣籍に入り右近衛中将となり、六歌仙の1人で歌人として知られていますが、彼は容姿秀麗で女性遍歴も多彩であったと云われ、自分自身を主人公とした「伊勢物語」では昔業平と契った井筒の女(実は、紀有常の娘)が現れて、業平との在りし日の交情を物語るのが第23段で「筒井つの井筒に掛けし磨が丈(たけ)生(お)ひにけらしな相見ざるまに」とあり、謡曲「井筒」でも詠われた「井筒」が「在原神社」の境内に残っていますが、井筒とは、井戸の地上部分を石や木などで囲った物のことで、本来は円筒形ですが方形のもあります。

 平尾山稲荷神社(石上廣高宮伝承地)

 「在原神社」から東へ行って、直ぐの国道169号線へ出たら渡って右(南)へ行き、正一位姫丸大明神と彫られた小さな石碑の所から東へ800m山の中へ入ると、左手に古びた朱色の鳥居がずらりと並び奧に「平尾山稲荷神社」が鎮座しています。ここ平尾山は旧地名を「宮の屋敷」と云って、日本書紀に書かれた第24代仁賢天皇の石上(いそのかみ)廣高ノ宮や、天皇の父の市辺押磐皇子の石上市辺ノ宮があった所と考証され、また、第61代醍醐天皇の時に編纂された延喜式に記される「石上市神社」は、ここにあった宮ですが、神社は江戸時代の中頃、石上村の鎮守として移され、跡に今の平尾姫丸稲荷大明神が残りました。
 石上銅鐸出土地

 「平尾山稲荷神社」の参道の前から東へ100m程行くと、細い道の左(北)脇に「石上銅鐸出土地」の記念碑が立っています。明治16年と17年にかけて突線鈕式の銅鐸が2個出土した記念碑ですが、ここら辺りには、丘陵の東から南にかけて百数十基の古墳が集中し「石上(いそのかみ)豊田古墳群」と呼ばれ、ほとんどの古墳が小さな円墳ですけど、中には「石上大塚古墳」「ウワナリ古墳」等全長100mを越える前方後円墳もあります。また、ここから東へ進むと、「豊田白川線」へ出て、北へ行くと「名阪国道」上の「白川大橋」を渡って、「白川ダム」へ至りますが、南(右)へ行くと、また「山の辺の道」に至ります。




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