山の辺の道  その9

 山の辺で最大の溜池「白川ダム」

 「弘仁寺」を過ぎて、茶畑、桃畑の側を歩き、苺の栽培をしているビニールハウスの所の三叉路を南へ向うと、「白川溜池」で、大正13年の大干ばつを契機に築造されて、堤長270m、堤高19m、受益面積440haです。堤防の下を歩き、名阪国道の高架下をくぐって「大将軍鏡池」を右に見ながら左へ折れ、また南へ向かって進むか、または、シャープ総合開発センターを右に見て名阪国道の上の陸橋を渡って「大将軍鏡池」を左下に見ながら歩いても良く、更に進みちょっと「県道51天理環状線」を歩いてから、東方の「豊日神社」へ向かい、天理ダムから流れ下って来た布留川(ふるがわ)を渡ると、「石上神宮」です。
 蒸気機関車D51

 JRおよび近鉄の「天理駅」の裏にD51.691蒸気機関車が客車オハ61930を連結しています。D51は旧国鉄の代表的な機関車で、昭和11年3月〜昭和20年1月まで1115輌製造され、主に貨物列車を牽引していましたが、客車も牽引し、幅広く使われ、展示の691は昭和17年6月16日に製造され、主に関西本線、奈良線、紀勢本線、東海道本線、東北本線を走り、地球を約42周して引退しました。また、牽引されている客車オハ61型は大正14年に木製のオハユニ15512号として誕生し、昭和30年11月29日に国有鉄道土崎工場で鋼鉄製に改造され、主に桜井、和歌山、紀勢各線で使用されました。
 天理教教会本部の「神殿」

 「山の辺の道」は、JRの桜井線に沿って奈良から桜井まで約20キロ以上も有るので、通常は天理から北または南へと歩くのが普通です。JRまたは近鉄の天理駅から東へ奈良県下最長約1キロのアーケードが続く商店街を抜け、写真の様な「天理教教会本部」の大きな神殿を左側に見ながら進みますが、1838年(天保9年)中山みきさんによって開かれた天理教の聖地、人類創造の地「おぢば」がここで、その広さは1万4000u、中心に建つ「神殿」は入母屋造で、東西南北に礼拝場が在ります。そして、これらを囲む様に天理市内のいたる所に「おやさとやかた」と呼ばれる鉄筋コンクリート和風5階建てが建っています。
 良因寺の薬師堂

 「天理教教会本部」の前から東へ向い、県道51号天理環状線と交差した四つ角の一段高くなった北東角が「厳島神社」の境内で、本殿の脇に良因寺(りょういんじ)の薬師堂が建っています。良因寺は、その昔石上(いそのかみ)寺とも称し、寺領1町2反60歩(約4千坪)もあった大寺で、今でも付近に西塔、堂の前、堂のかいと、堂のうしろ等と云う小字名が残っており、薬師堂は遍昭(へんじょう)が良因寺を建立した時、寺の守護堂として建立したと云われ、明治の中頃に炎上し、今のお堂はその後の再建です。なお、遍昭を、小野小町30歳が尋ねて来て、一夜の宿を乞い、詠った歌が、後選和歌集巻17に載っています。
 桃尾の滝(布留の滝)

 「厳島神社」の角から東へ行って、国道25号線を上がると、また、「山の辺の道」から少し外れるが、布留川(ふるがわ)沿いに「天理ダム」へ向い、途中バス停「上滝本」から左(北)へ約500m上ると、毎年7月18日「滝開き」を行う「桃尾の滝」です。落差約23m、大和高原西端を南北に走る春日断層崖の中で最大の滝で、桃(もも)は間間(まま、墹)が訛り、墹(がけ、まま)は山と山の間を表し、「谷間の滝」と云う意味で、この辺りは、古くから行場として知られ、その昔、義淵(ぎえん)によって開かれた桃尾山(ももおさん)蓮華王院「龍福寺」の境内で、中世に真言密教の道場として栄えたけど、明治時代に廃絶して、今は「阿弥陀堂跡」に「報親教大親寺」が建っていて、 古今和歌集で後嵯峨天皇が詠った歌は

 今はまた行きても見ばや石上 (いそノかみ)
 布留(ふる)の 滝津瀬(たきつせ)跡を尋ねて
 旧「龍福寺」跡に建つ「大親寺」

 「桃尾の滝」から可成り急な山道を「大国見山」の方へ登ると、途中に「大親寺」が建っています。元は弘法大師再興の真言宗桃尾山蓮華王院「龍福寺」、境内が東西十町(1090m)、南北六町(655m)にも及ぶ大寺院で、和銅年間(710年頃)義淵(ぎえん)が当山に登り、小堂を建て、義淵が大和に建立した龍蓋寺(岡寺)、龍門寺(廃寺)と共に龍名の三大名刹の一寺でした。それから20年を経て天平年間行基が義淵の後を慕い、この地に堂塔を建立し、十六坊を配する大伽藍を完成し、中世には五百石分、江戸時代には百石分の寺領を有したが、明治初期廃仏毀釈で廃寺となり、今は堂塔跡の石垣に往時を偲ぶのみ。
 大国見山(おおくにみやま、標高500m)

 「大親寺」から更に山道を登ると、岩屋・檪本への分岐点があり、そこから更にロープを伝いながら急な坂道を登ると約500mで、「大国見山」の頂上ですが、途中に八個の巨石(八龍王八箇石)が坂道の脇に転がっています。何でも神代の昔、素盞鳴命が出雲の斐伊川の上流、簸谷で八伎大蛇を八つ裂きにしたのが天から降って来た名残とかと云われています。また、頂上には、小さな祠が建っていて、ちょっとした広場にも岩が転がり、岩の側面に「御山大神」と彫られ、上面に狼煙の為の油でも溜めたのか直径約10cmの穴が掘られています。山頂の周りは木立が生い茂っているが一部から展望がよく、奈良盆地が見渡せます。

 石上神宮(TEL 0743-62-0900)

 「天理教教会本部」の前を東へ進み、県道51天理環状線へ出たら右折して南へ進むと、左手に万葉集で「布留の神杉」と詠われている「石上(いそノかみ)神宮」のうっそうとした神域が見えて来ます。「石上神宮」は昔、乙女が川で洗濯をしていたら、上流から剣が流れて来て、布に留り、布留社(ふるノやしろ)とも云われ、大和朝廷の武器庫で、大神神社と共に我が国最古の社です。祭神は「日本書紀」に載っている剣神「布都御魂神(ふつノみたまノかみ)=平国之剱(くにむけしノつるぎ)」と、鎮魂(たましずめ)の「布留御魂神(ふるノみたまノかみ)」、剣神「布都斯御魂神(ふつしノみたまノかみ)」の三柱です。




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