金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その6

 洞泉寺(とうせんじ)町の元「遊郭」

 かっての城下町「大和郡山」では豆腐町など職業別町割がなされて、現在も町名として残っていますが、「洞泉寺」辺りを「洞泉寺町」と云い、「洞泉寺」の北扉の脇に建つ「源九郎稲荷神社」の鳥居をくぐってから、真っ直ぐ北へ向かうと、細い路地の両側に細い格子がはまった木造3階建ての建物が並んでいます。この辺りは江戸時代から続いた遊郭の跡で、ちょっと左(西)へ路地を入ると「浄慶寺」の本堂の屋根より高い建物です。1687年(元和7年)頃、士風に悪影響ありとして全て取り払われたけど、延宝、元禄の相次ぐ大火に際し、再び復活され、昭和31年に売春防止法が制定されるまでは、大変賑わっていました。
 浄慶寺(じょうけいじ)

 「洞泉寺町」にある浄土真宗知恩院の末寺、金照山「淨慶寺」は、1280年頃(弘安年代)湛空上人が開基したと伝えられ、元は七条村(現在の奈良市)にあったけど、兵火にあい、1580年頃(天正年代)増田長盛が郡山に移し、1622年(元和8年)中興開山稱誉上人が現在地へ移しました。本尊は、当寺の18代明誉上人の代に当麻寺から伝来したと伝えられる重文の「阿弥陀如来坐像」で、平安中期(藤原時代初期)に彫られ、像高が104.8cm、木造漆箔、彫法は豪放で、ちょっと撫で肩、肉髻が盛り上がって螺髪は大きく、衣は両の肩に掛かり、大和では珍しく密教的色彩に富む像で、抑揚のある特異な作品です。
 西方寺(さいほうじ)

 路地から東西に伸びる「矢田町通」へ出ると、左に浄土宗智恩院の末寺、従是山「西方寺」があります。1510年頃(永正年代)に西念が開基し、元は尼ケ辻(奈良市の尼ケ辻)に在りましたが、1590年頃(文禄年代)現在地(車町)へ移り、中興開山は念誉上人です。1724年(享保9年)3月11日に甲府城主柳澤吉里が郡山城主となり、6月7日城受取で、幕府方引渡役人の大阪御目付御使番の大森半七郎が、「西方寺」を宿舎としました。なお、「西方寺」では平安から鎌倉の時代に書写および元版の市指定文化財「一切経」が経蔵に納められ、平安時代に書写されたもの1341巻、鎌倉時代書写のもは840巻です。
 円融寺(えんゆうじ)

 「西方寺」から「矢田町通」を西へ行くと、近鉄の「郡山駅」で、東へ行くと、JR大和路線「郡山駅」です。「西方寺」の並び東直ぐに融通念仏宗、大阪市平野大念仏寺の末寺、光岸山「円融寺」があります。1569年(永禄12年)郡山の実感法印が西ノ京に真言宗の寺院として創建したのが始まりで、その後、今の矢田町通へ移って、1710年(宝永7年)九世国誉上人が融通念仏宗に転じ、北和での融通念仏宗の中心的寺院です。降棟鬼瓦に正保二年(1645年)の銘があり、本堂建立もその頃と推定され、浄土宗寺院の本堂平面をもち、江戸初期の浄土宗寺院の典型的な建物です。赤膚焼中興の名匠奥田木白の墓もあり。




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