金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その5

 郡山八幡神社(柳八幡神社)

 「新城神社」から北へ行って、右(東)へ曲がり、近鉄の踏切を渡って、また北へ向かうと、柳四丁目に「郡山八幡神社」が鎮座しています。元は、城内高等学校の西100m辺りの台地にあって、当宮を中心に郡山中殿、辰巳殿、東、戌亥、南等の地侍がそれぞれ屋形を構えていましたが、その後そこが郡山城に取り込まれたので綿町に移り、さらに柳町が造られた時、1593年(文禄2年)頃に神主始め氏人衆の流れを汲む人々と供に現在地へ移って来ました。郡山城鎮護の八幡宮として歴代藩主の尊崇を得て今日にいたり、祭神は、誉田別命(応神天皇)、比売大神(宗像三女神)、気長足媛命(応神天皇の母、神功皇后)です。
 洞泉寺(とうせんじ)本堂と湯船(湯槽石)

 「郡山八幡神社」の東で、JUSCOの裏に浄土宗知恩院の末寺、霞渓山「洞泉寺」があります。元は、三河国挙母(ころも、豊田市)にあったが1581年(天正9年)僧宝誉により長安寺村に移され、その後1585年(天正13年)豊臣秀長の時、現在地へ移されました。なお、1615年(元和元年)7月水野勝成が廃城同然の郡山城へ入城したとき、しばらくは洞泉寺に仮住まいしました。本堂は、1659年(万治2年)に建てられています。また、地蔵堂に安置の「垢掻(あかかき)地蔵」、正しくは「閼伽(あか、仏に供える香水)かけ地蔵」で、境内に置かれている湯槽石と共に光明皇后が病人の治療に使用しました。
 源九郎稲荷神社(TEL 0743-52-4002)

 「洞泉寺」の東隣が「源九郎稲荷神社」です。昔、長安寺村(近鉄の平端駅の辺り)に草庵を結んでいた僧宝誉の夢枕に白狐が老翁の姿で現れ「吾を郡山城の巽に祀れ、守護神となって、城を守ってやる」と告げたのを、宝誉から聞いた城主豊臣秀長が城内竜雲郭に祀ったのが始まりで、白狐はその昔、佐藤忠信に化け源九郎判官義経を助けたので、源九郎(げんくろう)の名を賜り、1615年(元和元年)4月27日夜、大阪夏の陣の戦いで、大野治房が数万の軍勢を率いて郡山城を襲い、火を放った時、巽の方に白狐の変身した払炎龍が現れ、水を吐いたので兵火を免れました。なお、「保食社」の額は、城主柳澤保申の奉納です。




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