金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その12

 木屋の口の「出世地蔵」

 「西市跡」からまたバス通りを南へ戻って、バス停「小川町」から西へ行くと、通りから南側へ入る角に「出世地蔵」が祀られています。昭和6年夏、地元で金魚養殖を営んでおられる澤井家の物置が焼失して、その後片付けをしていたら地中より出現した地蔵で、その後、澤井フクエ、高橋イノ御両人が世話をされ、昭和22年からは、北向きにお堂を建立し、安置していましたら、ある時、池にはまって溺れかかった子が何人かいましたが、不思議なことに皆助かり、その人達は今もなお、お礼に訪れますが、それだけでなく、このお地蔵さんは霊験あらたかで、この町内からは、各界に出られ、それぞれ出世した人が多いそうです。
 「桜門跡」と「弁慶足形石(松の木の後ろ)」

 「出世地蔵」から更にバス通りを西へ行くと、近鉄橿原線九条9号踏切の手前、左側に「桜門跡」があります。五軒屋敷(現在の市役所辺り)の北端にあった門で、郡山城の「柳門」「鉄(くろがね)門」と共に重要な門で、1619年(元和5年)大和郡山城主となった松平忠明が、幕府の命令によって、伏見城から移した門でした。門櫓は3間に10間で、窓が1つ、出格子が2つ、鉄砲狭間4つが設けられていました。なお、「桜門跡」の門台東側下の石垣に約30cmの大きな凹形の窪みがあり、昔から「弁慶の足跡」と云われています。1185年(文治元年)11月義経と供に弁慶が吉野へ来ていますから、その時のものか?
 植槻八幡(うえつきはちまん)神社

 「桜門跡」から近鉄橿原線九条9号踏切を渡らず、1つ北の九条第8号踏切を渡ると、「植槻八幡神社」が鎮座し、本殿は江戸時代造営の一間社春日造です。創立年代は、明らかでないが、709年(和銅2年)藤原不比等が浄達法師を招き、維摩会を行った「植槻(廃)寺」と何か関係がありそうです。所で昔「植槻神社」の前で女人が産気づき、倒れていました。たまたま通りかかった産婆が、見かねて介抱し、赤ん坊を産ませ、取り上げてやると、赤ん坊を産み終えた女人は、産婆に厚く厚く礼を云い、くるりと廻って狸の姿になり、何処へともなく立ち去りました。すると翌日何処からか、産婆の所に大きな鯛が届けられました。
 大織冠(たいしょくかん)鎌足神社

 「桜門跡」横の近鉄橿原線九条第9号踏切を渡り、「大和郡山城跡」を左に見ながら西へ上がって行き、バス停「大織冠」で北への細い道を入ると、郡山中学校の西、森の中に「大織冠鎌足神社」が鎮座します。祭神は、大織冠藤原鎌足、1588年(天正16年)4月3日郡山城の鎮守として豊臣秀長が「多武峯談山神社」をそっくり持って来て、お城の西側の丘陵上に遷座したが、秀長が病気がちになり、兄の豊臣秀吉が郡山へ見舞に訪れ、神社仏閣に病気平癒を祈願して、1590年(天正18年)12月祟りを恐れた結果、「談山神社」は元の多武峯へ帰山され、後に、礎石の下から神鏡1面が出て「大織冠宮」が祭られました。




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