金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その13

 富雄川の土手「城町の桜づつみ」

 「大織冠鎌足神社」から南へ行って、YAMATO郡遊回廊「川の道WALK3」の標識に従って坂道を下へ下りて行くと「富雄川」の「城栄橋」の畔に出て「城町の桜づつみ」です。土手の上の歩道を川沿いに南(下流)へ歩くと、まだ若い桜並木の間に吾妻屋や藤棚、トイレもあり、親水の広場、スポーツ・コミュニティの広場、木陰の広場と続き、川の道の散策道はまた、外川(そとかわ)町のサイクリングロードでもあり、そのまま真っ直ぐ下流へ行くと、「富雄橋」で川から右へそれて、県道の大和小泉停車場松尾寺線を通って「松尾寺」へ、またこの道は、大規模自転車道奈良西の京斑鳩線でもあり、法隆寺へ続いています。
 登志禅院(はっしぜんいん)

 「富雄川」の「外川橋」を渡って県道189号矢田線の坂を西へ上がると、右(北)側に黄檗宗、恵日山「発志禅院」があります。1709年(宝永6年)の4月17日郡山城主本多忠常が49歳で没し、嫡子の本多忠直が永代供養のため、菩提寺として、奈良二名町「王竜寺」の住職古篆(こてん)に創建を依頼し、古篆が方丈、庫裡、北門を建て、後に本堂、山門を建立したが、新たな寺号を付けることを許されず、たまたま平群郡椎木村にあつた黄檗宗(おうばくしゅう)「発志院」が、郡山柳六丁目に移り、真言宗に転向し「松栄寺」と改めたので、旧「発志院」の寺号を貰い受け、新に建てた本多家の菩提寺の寺号としました。
 市指定文化財「歌ケ碕廟(うたがさきびょう)」

 外川(そとかわ)町「発志禅院」の直ぐ北西にある面積約770平米、高さ約10m程の丘の上に建つ墓で、郡山第2次本多藩主本多忠常が葬られています。壮大な石碑は、1709年(宝永6年)に建てられ、碑面には墓主一代の経歴が記され、台の大亀の目には金の玉眼が填め込まれるようになっています。また、碑の右隣には忠常の実姉で、松平右京亮忠倫に嫁ぎ、後に郡山城内に寄居して、弟の忠常よりも1年早く、1708年(宝永5年)51歳で亡くなった六姫の墓もあり、供に「発志禅院」で管理していますが、本多家は、5代39年で断絶して、その後は、郡山城主になった柳澤家の家臣達が当寺に墓所を求めています。
 市指定史跡「割塚(わりづか)古墳」

 「発志禅院」から県道189号矢田寺線を渡って、南側の千日町の方へ入って行くと、市営住宅へ南端に「割塚古墳」があります。直径49m、高さ4.5mの円墳で、頂上に盗掘されたと思われる大きな窪みがあり、このため割塚(車塚)と呼ばれています。なお昭和43年の発掘調査で、南に向かって開口する横穴式石室の玄室から、くり抜き式の家形石棺が発見されて、鏡1面、垂下式耳飾2対、水晶製切子玉、碧玉製管玉等が副葬品として見つかり、また、棺の周辺から馬具、挂甲、鉄鏃、須恵器等が出土し、6世紀前半の築造と思われます。なお、ここでは元旦の朝に黄金の鶏が鳴き、また、古墳の松を伐ると命を落とします。
 生田伝八郎の墓

 また、「発志禅院」の南側、県道189号矢田線を西へ上がって行くと、右側の金網垣の中にプロペラの練習機が置かれた「国立奈良工業高等専門学校」で、バス道路の反対側に浄土宗の「常称寺」があります。1661年(寛文元年)創建で、本尊は阿弥陀如来ですが、それよりもこの寺の境内墓地には、昔のお芝居「崇禅寺馬場の仇討ち」で有名な生田伝八郎のお墓があり、伝八郎は、1715年(正徳5年)5月13日稽古試合で負け、恥をかかされた遠城宗左衛門重次を翌日不意討ちにし、重次の二人の兄、治左衛門重広、喜八郎光乗らから仇討を挑まれたが、卑怯な手で返討にし、自らはその行為を恥じ、ここで自害しました。




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