金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その15

 東明寺(TEL 0743-52-7320)

 「三の矢塚」から西北へ向かって上がって行くと、高野山真言宗、鍋蔵山「東明寺(とうみょうじ)」があります。694年(持統天皇朱鳥8年)天武天皇の第五皇子舎人(とねり)親王の創建で、江戸時代には矢田山「金剛山寺」の支配下にあり、本尊は「木造薬師如来坐像」で、その他、寺宝に木造地蔵菩薩坐像・木造毘沙門天立像・木造吉祥天立像があり、いずれも平安時代の作で国重文です。又、本堂南側にある「七重石塔」は、高さ4.15mで、鎌倉時代後期の作と思われ、寺の西方竹藪の中に建つ「五輪塔」は、「九六騒動」の郡山藩家老都筑惣左衛門云成の墓。なお、毎年正月11日当寺で「つなかけ祭」が行われます。
 馬の「足形石(あしがたいし、大石、王石)」

 「東明寺」から山道を南へたどると、「矢田寺」の直ぐ手前、標識「近畿自然歩道」が建っている所から右の脇道を北西に200mほど登ると、崖から山道にはみ出して巨岩が横たわり、馬のひずめの跡が1つ付いていて「足形石」と云われ、672年(弘文2年)大海人皇子(後の天武天皇)が壬申の乱に際し、矢田山で戦勝祈願をした後、矢田山の頂上から馬に乗って東の方へ飛び降りた時、馬の足形が付いたと云われています。その後、この巨岩を割って運び出そうとしてノミを入れたら、岩から血が流れ出し、今でも岩には赤い血筋のようなものが付いています。なお、地元では、これを「大石」、また「王石」と呼んでいます。
 矢田寺(TEL 0743-53-1445)の山門

 通称「矢田寺」は、高野山真言宗別格本山、矢田山「金剛山寺(こんごうせんじ)」が正式の名称です。天武天皇が「壬申の乱」で勝利の後、679年(天武8年)勅願により創建、入唐し玄奘三蔵に謁した智通(ちつう)が開基、当初本尊は「十一面観世音菩薩」と「吉祥天女」だったが、820年頃(弘仁年間)満慶{後に、満米(まんべい)}が本寺に住持し、小野篁(おのノたかむら)と冥土へ行って、地蔵菩薩に会い、帰寺後「地蔵菩薩」を模刻して本尊にされ、以来「矢田地蔵」として寺運大いにふるい、七堂伽藍が整って48ケ坊の塔頭があったが、中世末期松永久秀の兵火で焼け、今は江戸初期の金堂、阿弥陀堂等です。
 矢田寺の鎮守「春日神社」

 矢田寺の本堂へ向かって上がる右(北)脇を入った奥の所に隣接の鎮守「春日神社」が鎮座しています。本殿は、国重文で一間社春日造、檜皮葺、室町時代の築造で、石段の耳石(みみいし、石段や敷石等の脇に据えられている石)には南北朝時代の年号「正平2年(1347年)11月」の刻銘がありす。なおまた、矢田寺本堂前の耳石には「貞和22年(1348年)2月15日」の刻銘があり、同じ境内でありながらも1つは南朝、1つは北朝の年号が刻まれ、南北朝時代「矢田寺」が南朝、北朝のどちらにも味方をしていた証拠かも知れず、興味深い耳石です。なお、市内丹後庄町の「春日神社」にある石段の耳石にも年号あり。
 平成14年修理が終わった矢田寺の本堂

 鎌倉時代に描かれた国重文「絹本著色矢田地蔵縁起絵巻」によると、平安時代の初期、朝廷の参議でありながら地獄の閻魔大王にも仕えていた小野篁(おのノたかむら)が、ある時、閻魔大王から「誰か俺に菩薩戒を授けて呉れる者はいないか」と訪ねられ、そこで篁は、彼の師で矢田寺の僧「満慶」を紹介しました。すると、菩薩戒を受けた閻魔大王がそのお礼に、民衆に代わって地獄の阿鼻城で責め苦を受ける地蔵菩薩を満慶に見せて、土産に箱を1つ与えました。地獄から帰った満慶が、箱を開けると、中に米が入っていて、米はいくら取り出しても減ることがなく満ち、以来、満慶は、「満米(まんべい)上人」と呼ばれました。




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