奈良南西部 西の京  その4
昭和最大の木造建築物、薬師寺の「金堂」

 「南門」から昭和59年再建の「中門」を入ると、正面に「金堂」、左右に東西両塔が建っているけど、1528年(享禄元年)9月7日東塔を除き、金堂、講堂、西塔が兵火で焼失し、1539年(天文8年)6月13日大風で諸堂が破損して、1596年(慶長元年)7月12日地震で西院堂、東西両門が倒壊し、1600年頃(慶長年間)薬師三尊が雨露をしのぐ仮堂が建てられたが、それも時代と共に老巧破損が激しく、昭和43年高田好胤管長を盟主とする一山僧侶の挺身的な百万巻写経で金堂復興勧進が開始され、昭和50年4月1日白鳳様式で内陣に薬師三尊像を安置する「金堂」が創建当時の規模で再建されました。
薬師寺の国宝「東塔」

 「西の京」でのシンボルは、何と云っても薬師寺の「三重塔」で、フェノロサによって「凍れる音楽」と称讃された東塔は、730年(天平2年)3月に創建された唯一の建物です。塔の高さは、斑鳩の法隆寺の五重塔より高く33.6m、相輪の高さは約10m。また、東塔は「竜宮の塔の写し」と言われ、今から約1270年昔、宮大工の匠の夢枕に天竺の薬師如来が立たれて、塔の建立を匠に命じられました。それから匠は、毎日図面を引きましたが、どうしても思う様にいかず、悩んでいたら、夢の中で竜宮の塔を見る事ができ、さっそくその塔を模写しました。今の東塔は、その様にして建てられ、相輪の水煙には天女が泳ぎ、塔は一見すると六層に見えますが、各層下の小屋根は裳階(もこし)と呼ばれる飾り屋根で、実際は「三重塔」です。なお、「金堂」の写真を見ても判ると思いますが、薬師寺の堂塔は元々全て裳階付きの竜宮造と呼ばれ、また、伽藍配置は中門と奧の講堂を結ぶ廻廊の中に東西両塔と金堂を配置する「薬師寺式」です。
 薬師寺の「西塔(三重塔)」

 「西塔」は、1528年(享禄元年)筒井松永の戦乱兵火で、金堂、講堂、中門等と共に焼失し、以来数百年は礎石のみが空しく往古の壮美を偲ばせていたが、近年百万巻写経勧進に呼応して全国から寄せられた仏心が凝集し、昭和56年遂に白鳳時代さながらの塔が復原しました。塔高36m、総桧造り、塔の心礎に平山画伯の将来された仏舎利が奉安され、内部の四相には、東面=成道、南面=初転法輪、西面=涅槃、北面=弥勒如来の彫刻が施されていますが、本来は分舎利で有るべき一相に、寺の意向により弥勒如来像に変便されています。なお、塔は一寺に一基あれば足るはずですが、白鳳時代の薬師寺において初めて二基を相対して配置する伽藍様式が建立されました。また、塔はインドの古い言葉サンスクリットでストゥーバと云って、本来釈尊の舎利(御遺骨)を祀る墓を示し、それが中国では卒塔婆と音訳されて、やがて日本にも「卒塔婆」として伝来し、その後は墓標を「塔婆」と呼び、お寺で「塔」とのみ呼称する様になりました。
 薬師寺の国宝「東院堂」

 「東塔」の東側に建つのが、間口7間、奥行4間の「東院堂」で、奈良朝初代女帝、第43代元明(げんめい)天皇が、721年(養老5年)12月7日61歳で崩御され、その追善のため、娘の吉備(きび)内親王の発願によって建立され、本尊として「銅造聖観音菩薩立像」が施入(せにゅう)され、透き通る様な裳の衣を感じさせる彫刻手法は、インドから初唐時代の中国を経て伝わるグプタ朝形式の影響を受け、もちろん今国宝です。なお、吉備内親王は、姉が第44代元正(げんしょう)天皇、兄が第42代文武天皇で、夫の長屋王と息子の3王子、膳夫(かしわで)、葛木(かつらぎ)、鉤取(かぎとり)らと自害しました。
 薬師寺の「大講堂」

 なお、「金堂」北隣が伽藍中最大の建物「大講堂」で、正面41m、奥行20m、高さ17m。本尊は、白鳳〜天平時代の重文「弥勒三尊像」です。なお、後堂に釈迦十大弟子が並び、その中央に国宝「仏足石・仏足跡歌碑」が安置され、いずれも天平時代の作で、仏像が造られる以前の印度では、ギリシャ文化の影響を受けて釈迦の足跡を石に刻んで礼拝し、印度の鹿野苑(ろくやおん)の仏足跡が長安の普光寺に写し伝えられ、それを留学僧が写し採って持ち帰り、753年(天平勝宝5年)文室真人智努(ふんやノまひとちぬ、天武天皇の孫)が亡き夫人の菩提を弔う為に刻み、木製の歌碑は、仏足礼賛を詠った21首の和歌です。
 薬師寺玄奘三蔵院伽藍の「玄奘塔」

 薬師寺の本伽藍の「金堂」、「東西両塔」を見て、更に「鐘楼」、「東西僧坊」を廻り、本伽藍の北側の拝観受付(8:30〜17:00)の所から出ると、西(左)側に近鉄橿原線・西の京駅が在り、また直ぐ北東は、薬師寺の本坊「写経道場」、「慈恩殿」で、正面奧が回廊で囲まれた玄奘三蔵院伽藍です。礼門を入ると、玄奘三蔵求法の精神を表した「不東(求法が達成するまで東へ帰らず)」の額を掲げた八角円堂の「玄奘塔」が建ち、玄奘三蔵の遺骨を納めています。そして、その後ろで回廊の北面をなす所が「大唐西域壁画」で、30年の歳月をかけて平成12年12月31日平山郁夫画伯が完成された大壁画が在ります。




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