金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その20

 小白水(しょうはくすい)

 「慈光院」から県道9号大和郡山斑鳩線(奈良西の京斑鳩自転車道)に出て、西南の斑鳩の方へ500mほど向うと、斑鳩町へ入る手前で、道の左側に井戸があり、古くから名水として知られた「小白水」です。付近大和郡山市「小泉町」の地はこの泉の名に因んで名付けられたと伝えられています。また、江戸時代には、ここ小泉藩二代目の藩主で、茶道石州流で有名な片桐貞昌も陣屋近くのこの清水を好んで茶の湯に使っていたとも云われています。なお、今はほとんど水が涸れていますが、昔は水量が豊かで天神山の麓を流れる一筋の用水として付近の田畑を潤し、人々はこの水源の「小白水」を大切にしていたと云われています。
 川鵜や鴨が来る「九頭上池」

 「慈光院」から県道9号大和郡山斑鳩線を東へ行き富雄川を渡ると、「九頭上(くずかみ)池」があり、堤長370m、堤高3.5m、受益面積40haで、615年(推古23年)聖徳太子が46の巨刹を創建し、その内の西岳院と満念院が共に最後に建立され、いずれも満願寺と名乗り、今は満願寺町に町名だけを残す廃寺ですが、その南約150mの所に太子が造成された池で、池畔を春、夏、秋、冬の各ゾーンに分けて、浮御堂もあり、九頭上とは九つの頭の上に太子が乗っている意です。なお、県道9号線を東へ行くと、バス停「片桐池の内」の角が椿寿庵(ちんじゅあん)で、1月下旬〜4月中旬に約5千株の椿が咲きます。
 「豊浦八幡神社」の本殿

 県道9号線から右にそれて、真っ直ぐ東へ行くと、JR大和路線の踏切を渡った左(北)側の集落の中に神社が鎮座します。市内に13もある「八幡神社」の1つです。本殿は、桁行2.67m、梁行0.9mの小さな社ですが、見世棚造の社殿を2棟並べ、中間をはさんで相の間にし、3間社流れ造を1つの屋根に収めた特異な形式で、正面千鳥破風は本瓦葺、細部を絵様彫刻や極彩色で装飾し、室町時代末頃の作風を残して、県指定文化財です。祭神は、誉田別命(ほむたわけノみこと、応神天皇)、三筒男命(みつつおノみこと、底筒男命、中筒男命、表筒男命の住吉三神)、例祭の宵宮に篝火を焚き、子供の宮相撲がありました。
 鉄筋コンクリート造の「千体寺」

 豊浦町の「八幡神社」から、更に東へ行って、近鉄橿原線の踏切を渡り、次の四つ角を右へ曲がって南へ真っ直ぐ行くと、かって郡山から吉野への旧道です。少し行って左(東)側、丹後庄町の集落の方へ入ると浄土宗、実相寺の末寺「千体寺」があります。平安中期、天台宗の恵心僧都(源信)の姉、願西尼を開基として、千体仏を安置し、「恵心山無量光院千体寺」と称したが、1588年(天正16年)5月12日に、本尊阿弥陀三尊の中尊が盗まれたので、今の本尊は、その後に他から移された阿弥陀仏で、室町時代の作と思われ、本尊を納めている厨子は、鎌倉初期のもの、珍しい「紫檀塗螺鈿浄土厨子」で、重要文化財です。
 筒井順慶城趾

 「千体寺」からまた旧道へ戻って、更に南へ行き、右(西)へ曲がったら近鉄橿原線「筒井駅」の所で、左の細い路地へ入ると「筒井城趾」です。1572年(元亀3年)筒井順慶は、松永久秀の多聞城を攻め、翌年天正元年にこれを落として城を壊し、1577年(天正5年)奈良中の人夫に申し付け、多聞城の石を筒井へ運ばせると突然、久秀が信貴山に立て籠もり、信長に反旗をひるがえしたので、信長は、長子信忠を大将に、明智光秀、筒井の諸軍で信貴山を攻めさせると、同年10月久秀親子が自害して信貴山城が陥ち、天正8年信長による「一国一城」の方針から、大和国では郡山だけに成り、順慶は郡山城へ移転しました。




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