奈良南西部 と 西の京 その6
唐招提寺の国宝「宝蔵」と「経蔵」 「鼓楼」の東側が「東堂および礼堂」で、更にその東側に建っている二棟の校倉(あぜくら、写真の左が「宝蔵」、右が「経蔵」で共に国宝)は、東大寺の正倉院の校倉より古く、我が国最古の校倉で、お寺になる前の新田部親王の時代から在りました。なお、髭面の親王は、母が藤原鎌足の娘の五百重女(いおえノいらつめ)で、ある時浮気し「お前の様に蓮が美しく咲く池の畔を通って帰ったよ」と女房に嘘をつくと、焼き餅女房は、万葉集の巻16−3835を詠いました。 勝間田の 池はわれ知る蓮(はちす)無し 然言(しかい)ふ君が 鬚(ひげ)無き如(ごと)し |
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「鑑真和上御廟(ごびょう)」 「宝蔵」の東側に昭和45年「新宝蔵」が建って、それまで諸堂に仮安置されていた諸仏、経典等が納められ、毎年3月21日〜5月19日と、9月15日〜11月3日の2回特別開扉され、「新宝蔵」の更に北奥の築地塀の小さな門を入ると、「シャラ」が数本植わった森の奥が「鑑真和上御廟」です。なお、写真に写っていないが、向って花生けの右に、鑑真和上の故郷、中国揚州の花「けい花」が植わっていて、日本ではほとんど見られず、6月上旬、 気品のある白い花が咲き、また、中央の鼎(てい、かなえ)は古代中国の祭器、煮物の鍋です。所で、鑑真和上は揚州大明寺の高僧で、渡航失敗5度の後、やっと来日しました。 |
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国重文「御影堂」の右近の橘、左近の梅 「鑑真和上御廟」西隣に在るのが興福寺旧一乗院の宸殿遺構を移築し復元された「御影堂」で、763年(天平宝字7年)6月6日、76歳で亡くなった鑑真和上の命日を挟んで3日間(5日〜7日)開扉され、ご尊像を拝めます。なお、我が国最古の肖像、国宝の鑑真和上座像は手の部分だけ木造で、身体は脱乾漆で空洞です。この像は鑑真の弟子で「鑑真伝」を書いた思託(したく)の弟子忍基(にんき)が、講堂の梁が折れる夢を見て、それを思託に告げると、それは和上遷化の予兆に違いないと考え、思託が諸弟子を率いて造りました。座像が完成すると鑑真和上は、西を向いて、結跏趺坐のお姿のままで亡くなられたそうです。 |
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唐招提寺の奥院「西方院(さいほういん)」 「唐招提寺」を出て、右(西)へ行き、近鉄橿原線尼ヶ辻第3号踏切を渡ると、左側に石仏があり、横の道標に「右、尼が辻、さいだいじ」と彫られ、更に西へ辿ると、大和北部八十八ヶ所霊場巡拝第50番律宗「西方院」で、1240年代(寛元年間)慈禅の創建です。南東角の山門を入ると、鬱蒼と木が繁る中に旧護摩堂があり、横に建つ高さ2.8m、県文化の五輪塔は「中興二世証玄和尚墓」です。なお、旧護摩堂の裏にある収蔵庫に「木造阿弥陀如来立像」を安置していますが、左足臍に法眼快慶の銘があり、鎌倉時代の快慶晩年作で、国重文です。また、踏切の所まで戻り、北へ400m行くと、「垂仁天皇陵古墳」です。 |