奈良南西部 西の京  その7

 垂仁(すいにん)天皇陵 (お話その1)

 近鉄橿原線尼ヶ辻駅のすぐ西に水を満々と湛えた濠を持つ御陵は、第11代垂仁天皇菅原伏見東陵」、天辻宝来山(蓬莱山)古墳です。全長227m、後円部は高さ17mで径123m、前方部は高さ15.6mで幅118mの大型前方後円墳で、電車からも良く見える濠の東側にポッカリ浮かんだ小島が、我が国へ橘の木を持ち帰った田道間守(たじまもり、多遅摩毛理)の墓です。今を去ること二千年前、天皇が田道間守を召されて「西方の海の彼方、常世(とこよ)の国の蓬莱山に非時香菓(ときじくノかぐノこのみ)と云う珍しい果物の木があるそうだが、その香は得も言われぬ程にかぐわしく、不老不死の良薬になると聞く」
陪臣塚「田道間守のお墓」 (お話その2)

と仰って、垂仁天皇は田道間守に「お前が常世の国へ行って、その木の実を採って来てお呉れ」と云われ、勅命を受けた田道間守はさっそく日本を発って、海を越え谷を渡り苦しい旅を続けましたけれど、なかなか不老長寿の実がなる木は見つかりません。所がある時田道間守は若い娘が老人を叱っている光景に出会い、よくよく訳を聞いて見ると、本当は若い娘が母親で、老人がその息子。「息子は酸っぱいこの実を食べず、こんなに年を取りました」と云って、一つの木の実を見せました。 それこそ探し求めていた不老不死の実、田道間守はその木を数本譲り受け、国を出てから十年目にやっと帰国の途につきました。しかし、帰国して
田道間守命陪臣塚遥拝所 (お話その3)

見ると垂仁天皇は既に亡く、田道間守は悲しみに呉れ御陵の前で持ち帰った非時香菓の木を捧げ持ち、泣き果て息が絶えました。そこで、田道間守は御陵の濠の中に小島(陪臣塚)を造って葬られ、濠の縁から遥拝します。なお、田道間守が亡くなって非時香菓の木は彼の名に因み田道間花(たじまはな)と呼ばれたのが詰まり、橘に成り、これが日本の柑橘類(みかん)の元祖で、彼は今では果物やお菓子の祖神です。また、1791年(寛政3年)の「大和名所図会」で、垂仁天皇陵の前方後円墳を神仙の住む不老不死の山に因み「蓬莱山」と記し、今の地名は「ホウライ」に宝来の字を当てて、御陵の北側を奈良市宝来町と称します。
 歯痛(はいた)地蔵菩薩

 「垂仁天皇陵」から北へ二丁(約218m)行くと国道308号線へ出会して、右(東)へ曲がると近鉄橿原線「尼ケ辻駅」で、踏切を渡ると、昔の平城京の「三条大路」ですが、国道308号線へ出て左へ曲がって西へ行くと、バス停「宝来東口」の北側に兵庫山があり、垂仁天皇の陪塚(兵庫山、飛鳥の高松塚よりも遙かに大きい塚)があります。更にバス道路を西へ行くと、やはり道に面して浄土眞宗本願寺派、伏見山「西圓寺」があり、そこから更に西へ行くと、小さな祠の中に「歯痛地蔵菩薩」が安置されています。その手前の三叉路を右へ曲がり北へ行くと、国道308号線より道幅が広い「県道1号奈良生駒線」へ出ます。
 蓬莱(ほうらい)神社

 なお、「歯痛地蔵菩薩」を右に見て、更に西へ行き4車線の道を横切ると、浄土真宗、本願寺派、蓬莱山「佛願寺」があり、山門脇に「阿弥陀如来立像石仏」が祠に安置されていますが、更に西へ進み集落の中の「蓬莱神社道」へ入って突き当たると「蓬莱神社」が鎮座しています。祭神は、須佐之男命と、妻の櫛稲田姫命。本殿は流造瓦葺で、明治40年再建です。なお創建年代は不詳ですが、元、垂仁天皇の御陵の守護神として兵庫山(垂仁天皇の陪塚)で祀られていました「兵庫山神社」を明治40年に合祀しておられます。また、3月10日春祭、7月14日夏祭、10月9日秋祭で宮座が営まれ、月例祭は、1日と13日です。
 安康(あんこう)天皇陵

 また、「蓬莱神社」の前の池を廻って、南へ出て、西へ行くと、山1つ西隣が「安康天皇菅原伏見西陵」で、直ぐ北が第二阪奈の「宝来ランプ」です。なお、第20代安康天皇は、允恭(いんぎょう)天皇の第二皇子、母は忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)命で、名を穴穂命(あなほノみこと)と云い、父の崩御後、同母兄で皇太子の木梨軽皇子が同母妹と手に手を取って逃げて殺され、453年(允恭42年)12月石上穴穂( いそノかみノあなほ)宮で即位したが、大草香皇子を殺し、その妻、中磯皇女(なかしひめ)を皇后にしたら、456年(安康3年)8月皇后の連れ子、眉輪王(まよわノおおきみ)に殺されました。




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