「大和三山」と「長寿道」の辺り  その6

 今井寺内町の「公民館」と「環濠」

 「旧高市郡教育博物館」の西裏が「公民館」で、北側に幅3間の「環濠」が復元されています。興福寺の庄園「今井荘」が町場的発展をとげた最大の要因は、戦国時代末の1540年代(天文年間)一向宗道場の建設でした。石山本願寺の家衆(かしゅう)の1人、今井兵部が称念寺の前身である道場を建てて、今井の農民を門徒化し、各地から商人、浪人を集めて町割を施し、周囲に濠を巡らして寺内町を形成しましたが、本願寺が織田信長に対して挙兵した時、今井町も兵部を中心に兵を挙げ、明智光秀軍と対峙したが降伏し、1575年(天正3年)信長の軍門に降った後、在郷町として発達し、今も歴史的な景観を残しています。
 重文「高木(たかぎ)家住宅」

 「旧高市郡教育博物館」から北へ行き2つ目の辻、中尊坊(ちゅうそんぼう)通りに入って西へ向かうと「高木家住宅」があります。19世紀初期頃、「四条屋」より分家し「大東の四条屋」の屋号で本家の酒造業を助け、後に醤油業も併せて営んでいました。主屋は、発達した本二階建て、切妻造、本瓦葺で、一階と二階が共に2列6室型の部屋になっていて、一階は、土間を設けた6間取りで、表通りに面した細い木割の格子は、精彩さが良く目立ち、二階の窓は大きく開いて解放的ですが、出格子にされて、ちょっと閉鎖的な要素も残し、幕末期建築の上層町家の特徴を示した好例です。また、主屋の脇にも門が儲けられています。
 重文「河合(かわい)家住宅」

 「高木家」の2建西隣の角が「河合家住宅」です。当家は、「順明寺」が江戸時代初期、16世紀末頃、今井に移った時、橿原市上品寺町の上田家より分家し移住したと伝えられ、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営み現在に至っています。主屋は、18世紀後半頃に建てられた早い時期の二階建町屋で、東北隅に接続する細長い「納屋」の二階は、杜氏(とうじ)の宿泊所で、その一階は、休憩所、風呂、便所等で、19世紀前半頃改築されたものです。また、二階建ての主屋は、今井でも古い遺構で、一階の根太天井を低くし、二階に簀子天井の座敷が設けられ、床、欄間書院等を付加し、豪商の片鱗がうかがえる建物です。




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