「大和三山」と「長寿道」の辺り  その9

 重文「中橋(なかはし)家住宅」

 また「上田家住宅」まで戻って南へ行き、3つ目の辻を西へ行くと、「中橋家住宅」です。屋号を「米彦」米屋彦六と云い、江戸時代は、代々米屋を営んでいましたが、幕末には肥料、金物商も合わせて営んでいた様です。称念寺蔵の1748年(寛延元年)の古図によれば、この地に屋敷を構えていたことが判ります。主屋は、18世紀後半頃建てられた平屋建の町屋で、西側の道路側に狭い通り土間を取り、西南隅に内側は解放の「しもみせ」がありますが、外側は収納に便利な様に蔀戸(しとみど)になっています。東側は「店間」を大きく取った喰違いの6間取りとし、19世紀初期頃、正面通りに「つし2階」が増築されました。
 浄土真宗本願寺派「称念寺の山門」

 「中橋家住宅」の斜め前に「称念寺」があります。16世紀中頃、今井兵部豊寿によって武装宗教都市の「寺内町」が今井町に形成され、1580年代(天正年間)本願寺第十一世の顕如上人により寺号を得て、今井兵部富綱が開基で建立したと伝えられ、大和五ケ所御坊十六大坊の要として中本山に列する寺で、代々今井氏が世襲して兵部と号し、武士と僧侶をかねて、信長、秀吉、家康に仕え、中でも秀吉の庇護が厚かったが、江戸時代に入り、寺内町の存続を嫌った幕府が1679年(建宝7年)「郷中並」に扱い、今井氏は武士を返上して釈門に専念し、現在に至っています。山門は、明治10年天皇行幸の際、多武峯より移築。




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