「大和三山」と「長寿道」の辺り  その19

 旧村社「市杵島神社」

 「吉備池」から北西へ向かうと、国道165号線を越して、JR桜井線「香久山駅」から更に近鉄大阪線「耳成駅」へ行く途中で、橿原市石原田町堂の後に「市杵島神社」が鎮座しています。創建年代は明らかではありませんが、伝承によると、当地が藤原宮の東北隅(丑寅)の鬼門に当たるため、藤原京域防衛の守護神として宗像三神の1柱「市杵島姫命(いちきしまノひめノみこと)」を勧請したと云われ、石灯籠に江戸時代の天和年間(1680年代)の紀年銘や、宝永元年(1704年)6月吉日の銘があります。なお、祭神の市杵島姫命は、素戔鳴(すさのお)命の子で、俗に弁財天とも称して、七福神の一神でもあります。
 三輪神社西南隅の「礎石」

 「市杵島神社」から昔の「横大路」を更に西へ行くと、南北に延びた昔の「中ツ道」と交差した所に三輪神社が鎮座し、神社の境内を出た西南角にお地蔵さんが小さな祠の中に安置されていますが、その祠の裏が小川で、大きな「礎石」が置かれています。写真ではちょっと影になって見難いけど、直径1.4m、円座直径1.1m、厚み40cmの花崗岩製です。でも、なぜここに、この様な大きな石が置かれているのかは詳らかでありませんが、当地が旧藤原京域の北東角に位置するため、藤原京内の寺院のものを持ち出したものか、あるいは「大和旧跡幽考」の云う「面堂」の遺構かも知れず、古(いにしえ)の面影が偲ばれます。
 旧村社「竹田神社」

 近鉄大阪線「耳成駅」から北へ「耳成高校」の前を通って約1.6キロ行くと、「寺川」の南岸、橿原市東竹田町に「竹田神社」が鎮座しています。古くは、三十八所社と称し、「延喜式」神名帳十市郡(とおいちごおり)の「竹田神社」に治定され、土豪の竹田川辺連(むらじ)が祖神天神火明(あめノほあかりノ)命を祀ったと云われています。なお、「古事記」によると、天火明命は天孫降臨の邇邇芸(ににぎ)命の兄です。また、境内の北側には神宮寺の「大日堂(だいにちどう)」があり、1555年(弘治元年)に宿院(しゅくいん、現在奈良市)仏師源次・源四郎父子によって作られた「大日如来坐像」を安置しています。
 竹田の庄(たどころ)の原

 また、「竹田神社」の境内には大伴坂上郎女(おおともノさかノうえノいらつめ、大伴家持の叔母)が娘大嬢(おおいらつめ)に歌って贈った万葉歌碑があり

 うち渡す 竹田の原に鳴く鶴(たづ)の
 間なく時無し我が恋ふらくは 巻4−760

見渡す「竹田の原」は「竹田神社」から北へ行って、「寺川」を渡った辺り、写真の様に東に「三輪山」が聳え、昔は鶴が鳴いて、その声が絶え間なく聞こえていましたから、大伴坂上郎女も奈良の佐保にいる娘を思う気持ちは何時までも絶える事がなかったそうです。
 旧村社「十市御県坐神社」

 「竹田神社」から北へ行って、「寺川」を渡り、川沿いに下流(西)へ向かうと、橿原市十市町の集落に「十市御県坐(とおちノみあがたにいます)神社」が鎮座しています。鳥居の額に豊受(とようけ)大神と書かれていますが、市杵島姫(いちきしまひめ)命も合祀して、近世には十三社明神と呼ばれていました。なお、当地は古代の豪族の十市県主(とおちノあがたぬし)の拠点で、中世には土豪の十市氏が平城(ひらじろ)の十市城を築城し、1540年代(天文年間)十市遠忠(とおただ)の時、最も勢いがあり、北東の龍王山頂に築かれた龍王山城は、彼の詰城で、また、彼は歌道に通じ、歌集五巻七百余首を残しています。
 正覚寺「阿弥陀堂」

 「十市御県坐神社」から北へ出て、狭い道路を西へ向かうと、道路の右(北)側に「十市簡易郵便局」があり、そこを過ぎて直ぐの所を左へ折れて、南へ入って行くと、「寺川」の北岸で、橿原市十市町の集落の奥まった所に四方をコンクリートで固められた池があり、その奥のちょっとした広場の南側に石塔とお地蔵さんが数体並び、東側の正面に正覚寺の「阿弥陀堂」が建っています。無住のお堂ですが、十市町自治会が管理されている様で、堂内には「木造地蔵菩薩立像」と「木造天部立像」を安置しています。2躯とも奈良県指定有形文化財で、所有者は十市町の自治会さん、昭和63年3月22日教育委員会告示21号です。
 梅川忠兵衛の墓所「善福寺」

 「正覚寺」から通りへ出て西へ行き、国道24号線に出くわし、南へ向かい、バス停「新ノ口」から、右(西)へ入ると、近鉄橿原線「新口(にノくち)駅」で、踏切を渡って線路沿に北上すると、集落の中程に浄土真宗興正派歓喜閣「善福寺」があります。浄瑠璃や歌舞伎で上演される近松門左衛門の「冥土の飛脚、新口村の段」で有名な梅川(うめかわ)忠兵衛の墓が山門を入った直ぐの所に建っていますが、1709年(宝永6年)に大阪淡路の飛脚亀屋の養子忠兵衛は、客の為替三百両の封を切り、遊女梅川と雪の降る中、故郷の新口村に立ち寄って、逃げる途中で捕まって、翌年12月5日大阪千日前で刑場の露と消えました。




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