奈良市西部から茶筌の「高山」辺り  その4

 葛上(くずがみ、TEL 07423-54-1371)神社

 「霊山寺」の北隣の丘に鎮座するのが「葛上神社」です。本殿に建速須佐命を主神として奉斎し、相殿に大山咋神、天照大神、三筒男命を祀っています。なお当社の伝記は、散逸し、あるいは火災に罹(かか)り知るよしもありませんが、鎮座以来多くの歳月を経て奈良朝の頃には既に存在していたもようで、大和添下郡鳥見谷一円を代々領有していましたが、小野国麿の時、794年(延暦13年)都が平安京へ移されて、それに伴い丹州山国の庄に御料木切出職を得、その地に移り代々居住するに及び、本殿も移されましたが、その後、この旧跡にも再び神社を造営した様で、境内の一隅に「葛上神社古蹟」と記せる石碑があります。
 霊山寺「東光院大霊園」本堂(地蔵堂)

 「葛上神社」の右脇を通って、裏の北山へ上ると、霊山寺の「東光院大霊園」があります。東に若草山を望む12万平方メートルの広大な台地に十数万の墓が建ち並び、墓地入口に建つ「霊園本堂」には、本尊の重文「延命地蔵菩薩」や、1千体の地蔵菩薩と弘法大師、不動明王、蔵王権現、阿弥陀如来などを安置し、本堂上層に吊るされた大梵鐘は、朝夕3回撞き鳴らされ、年中休みなく精霊を回向しています。なお、本堂左前面に四国八十八ヶ所霊場本尊を勧請し、70mに亘る石仏霊場があり、「お砂踏み」巡拝ができます。また、当地は「地蔵尊霊場」で、参道に人間の生まれ変わる六つの世界を守る「六地蔵」を祀っています。
 霊山寺「東光院大霊園」地獄洞

 「東光院大霊園」本堂の東隣は「霊園事務所」で、売店、花店、休憩所ですが、西隣に世界最大立体地獄絵を安置した「地獄洞」があります。拝観料100円払って鍵を開けてもらい、中に入ると、高さ1.8mで、十数面の浮出彫極彩色絵があり、イタリアはミケランジェロの最期の審判画、フランスはルーブル博物館のロダンの地獄門と対比する東洋一立体地獄相で、厚さ10cm、鉄筋コンクリートのキャンバスに水彩系統の顔料を使い、雄大で迫力のある空前を表現し、餓鬼群像の苦悶の姿が近代芸術の感覚で描かれ、利害計算以外に何物をも考えない今の世の悪因悪果、因縁による恐ろしい地獄の実相を立体的に表しています。
 添御県坐(そうノみあがたにいます)神社

 「葛上神社」から更に富雄川に沿って北上し、近畿大学農学部へ行くバス路線の「近大橋」を渡って更に北上し、黒谷橋の手前から東へ入って旧道を北上すると、県道1号奈良生駒線のガード下を越して、式内社「添御県坐神社」の鳥居が右に建っています。そこを右(東)へ入ると、参道の両側に、祠に入った石仏が立ち、直ぐ左へ曲がって石段を上がると境内に舞台があり、拝殿裏に重文の「本殿」が建ち、五間社流造、建立は南北朝時代、1383年(弘和3年)、正面の中央と両脇に千鳥破風を設け、中央の間(ま)と両端の間が神座で、祭神に建速須佐之男命、武乳速之命、櫛稲田姫命を祀り、花を彫り込んだ透蛙股が美しい。
 根聖院(こんしょういん)

 「添御県坐神社」の西隣が、北和霊場第三十三番、真言律宗鳥見山「根聖院」です。なお、この辺りは、奈良市三碓(みつがらす)と呼ばれていますが、それは、院の庭にある3つの窪みをもつ石が、碓(うす)だったからで、これが此の地を「三碓」と呼ぶ由来です。なお、この地は聖徳太子の命を受けて、607年(推古天皇15年)と翌年の2回、隋に使いした小野妹子の子孫が領した地でもあり、また、生駒市高山の黒添(くろんど)池に源を発する富雄川が南へ流れて大和川に注ぐまでの約20キロにおよぶ流域を古くは「鳥見(とみ)の郷(ごう)」と呼び、富雄川をまた「富の小川」と呼んで、祝い歌でよく詠われました。




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