奈良市西部から茶筌の「高山」辺り  その3

 旧追分梅林(組合、TEL 0742-47-6604)

  バス停「若草台」の終点から西へ行くと、県立矢田自然公園「子供の森」ですが、途中から北へ向うと、暗峠へ通じる国道308号線(暗越奈良街道)と交差し、国道の北側が奈良市中町で、過っての旧「追分梅林」です。東方に若草山を見て、奈良盆地が一望される高台にあり、約10ヘクタールの傾斜地に約6千本の梅ノ木が植えられ、3月上旬〜中旬にかけて、紅白色とりどりに花を咲かせ、芳香に包まれた梅林を以前は散策する事が出来ましたが、残念ながら平成23年3月末日を持って農地改良造成工事のため一時閉園されました。なお、多くの梅ノ木は綺麗に抜き取られて近く(西側)に移植され、工事が終れば3年後に元に戻されるか、または、新しく植林するとのことです。
 奈良市指定文化財「追分本陣村井家住宅」

 わずか車1台しか通れない、国道308号線(暗越奈良街道)が南北に走る道と交叉し、右(北)へ行くと「霊山寺」、左へ行くと大和郡山「矢田寺」です。また、R308を西へ辿ると、生駒暗(くらがり)峠を越えて大阪へ至りますが、ここが大和郡山との分岐点であるため追分の本陣と呼ばれる「村井家」が角にあります。19世紀初め〜中期に建てられた主屋は、屋根が茅葺(かやぶき)と桟瓦葺(さんがわらぶき)を組み合わせた大和棟形式で、この主屋の南東に上段の間、控(ひかえ)の間、玄関などからなる座敷棟が接続し、奈良市内では珍しい宿場建築として貴重なので、昭和59年3月に市指定文化財になっています。
 榁木山弘法大師堂「賢聖院」

 昔は奈良〜暗峠〜大阪を結ぶ最短の道で、松尾芭蕉も奈良から登り、今もその面影を色濃く残すR308号線を西へ上がると「榁木峠」で、左(南)の弘法大師乗詣道へ入ると、榁木山弘法大師堂「賢聖院」で、昔は法隆寺の当頭寺院でしたが、明治29年ここ榁木山へ門と共に移転して、本尊は秘仏の「弘法大師修行成道立像」で、榁の木の「お大師さん」として広く庶民に親しまれ、五尺地蔵石仏は奈良街道八体の石仏の1つ、大和北和新西国八拾八ケ所第廿二番霊場です。山門の左手に大きな「もろの木」があるけれど、それよりも山門を入って、右手の本堂前には、写真の様に樹齢100年を越える見事な紅梅が植わっています。
 矢田丘陵遊歩道入口ゲート

 「榁木峠」から「矢田丘陵遊歩道」を北へ辿ったら、「学習の森・自然体験ゾーン」で、緩やかな上り下りが続いて「神武峯」から「椚(くぬぎ)峠」に至り、バス道路の右(東)側が「帝塚山大学」の正門で、左(西)側にバス停「社会保険健康センター」があり、更に西へ向うと近鉄生駒線「菜畑駅」、または、北西へ向うと近鉄奈良線「東生駒駅」が直ぐです。なお、ちょっと往来の激しいバス道路を注意して渡り、更に「矢田丘陵遊歩道」を北へ辿ると、「健康の森・シンボル交流ゾーン」で、近鉄奈良線「新向谷トンネル」の上、展望橋からの眺めが最高で、更に北へ向うと、「阪奈道路」の退避線に遊歩道のゲートがあります。
 歓喜乃湯「足湯」

 また「矢田丘陵遊歩道」を「榁木峠」まで戻って、国道308号線(暗越奈良街道)を西へ下ると、坂の途中に、人と犬のコミュニケーション広場、ドッグラン&アジリティー、DOG FOREST、プロリビング(TEL 0743-76-5100)があり、更に坂を下ると、貯水タンクの下が小瀬保健福祉ゾーン「安らぎの杜」で、歓喜乃湯「足湯」があります。入湯無料で、年中無休、入湯は10:00〜17:00まで、15名程が足をつけることが出来て、駐車場もトイレもあり、矢田丘陵遊歩道、矢田山遊びの森(子どもの森)から約1.5キロの所なので、お天気の良い土・日には、ハイキングがてらの人々で、何時行っても満員です。
 霊山寺(TEL 0742-45-0081)

 なお、R308を更に西へ行くと、近鉄生駒線「南生駒駅」へ至りますが、また、R308を東へ戻り、「追分本陣村井家」から北へ向かい、第二阪奈国道の下を通り、途中で左へ折れて北へ辿ると、赤い霊山寺(りょうせんじ)橋が見え、真言宗登美山鼻高大本山「霊山寺」です。約1300年前、右大臣小野富人が薬師三尊を祀り、薬草湯屋を建てて諸人の病を治したのが始まりで、734年(天平6年)聖武天皇の夢枕に薬師如来が立ち、孝謙皇女永年の病を平癒されたので、勅命によって行基が伽藍を建立し、その後、北条時頼が帰依して、豊臣秀吉、徳川家康による寺領寄進知行の下付があり、勅願御朱印寺として栄えました。
 霊山寺の国宝「本堂」

 天下泰平国家安穏万民豊楽の祈願寺として昔栄えた「霊山寺」も明治維新の廃仏毀釈により伽藍の規模を半減しましたが、なお、国宝と重文の建物6棟、重文仏像と什宝物30余点を所蔵し、千余年前に弘法大師空海が駐留の際に勧請された大辨才天の霊験によって衰退することなく今日の隆盛を保っています。なお、国宝の本堂は、736年(天平8年)の創建ですが、後に1283年(弘安6年)と昭和17年に解体修理され、間口5間、奥行6間、単層入母屋造で正面1間向拝付きの本瓦葺、鎌倉時代中期の和様を基調とした建築です。また、広大な境内には、千二百有余年来の祈祷伽藍と十二万霊地の回向伽藍等も並んでいます。
 霊山寺の重文「三重塔」


 「本堂」から谷間の参道を夾んで南の高台に方三間桧皮葺の「三重塔」が建ち、1283年(弘安6年)の建立で、塔内に極彩色の釈迦涅槃図や、五大明王が描かれています。また、斜め横の「行者堂」は、霊山寺の乗阿上人が聖宝(理源大師)に随って大峯山再興に尽くし、大峯山方正大先達になって建立され、本尊「神変大菩薩(役行者)」を祀っています。なお、境内の斜め下に、昭和57年改築された「薬草湯」があり、遣隋使・小野妹子の息子、小野富人(とみひと)が、671年(天智天皇10年)右大臣に成り、その翌年「壬申の乱」で官職を辞し、ここ登美山に閑居して、薬草を栽培する傍ら、「薬師如来」を祀って薬草風呂を施湯したので、鼻高仙人と尊崇され、後に聖武天皇が鷹狩りの折りに立ち寄って、光明皇后も入浴され、また、三重塔の横を上がると、菩提遷那(ぼだいせんな)墓があり、彼は当地が印度の「霊鷲山」に似ていたので、寺号を「霊山寺」と命名しました。更に「案内所」の裏を北へ向かうと、「ばら園」です。
 婆羅門僧「菩提遷那」の墓

 婆羅門とは印度の四姓階級の最高位の僧や学者の事で、その僧菩提遷那は林邑(りんゆう、ベトナム)で真珠取をしていた僧仏哲(ぶってつ)を弟子に、唐の五台山大華厳寺から、736年(天平8年)多治比広成(たじひノひろなり)を大使とする遣唐使船に便乗して、渤海(ぼっかい)国から船出し、難波津(大阪港)に上陸すると、行基を始め僧侶99人、治部(じぶ)や玄蕃(げんば)の役人達に雅楽で盛大に迎えられて来日、752年(天平勝宝4年)4月9日病弱で筆も持てない聖武太上天皇に代わって大仏開眼導師を勤め、長さ57cm、直径4cmの筆で大仏に眼を入れました。なお、彼の像は本堂に安置されています。




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