人麻呂生誕地「葛城市新庄」  その1

 人麻呂の生地に鎮座する「柿本神社」

 JR和歌山線「大和新庄駅」から西へ行くと、国道24号線を渡って600mで近鉄御所線「新庄駅」、直ぐ西側が「柿本神社」。女帝で第41代持統天皇、孫の第42代文武天皇の頃に活躍した万葉歌人「柿本人麻呂」は、社伝によると、石見国(島根県益田市)で706年頃亡くなって遺骸を770年(宝亀元年)この地に改葬し、紀僧正が彫った秘仏「人摩呂像」を祀り、本殿は、17世紀後半に建立され、本殿の脇に1681年(天和元年)大和郡山藩主・松平(藤井)信之が建てた人麻呂の墓碑があります。なお、人麻呂は石見国へ赴任する前、奈良では新庄と櫟本(いちノもと、JR桜井線・櫟本駅)にも住んでたそうです。
 「柿本大夫人麻呂墓」

 なお、「柿本神社」拝殿の正面に大きな36歌仙の絵馬が掛かっていますが、保存が悪くかなり絵が薄れています。そして、「柿本人麻呂」をご祭神として祀られている本殿は、拝殿の後ろに回って有刺鉄線で囲まれた中に建つ、真っ赤な小さい春日造のお社です。また、境内に小さく石垣で囲まれた「柿本大夫人麻呂墓」の墓碑と共に「人麻呂歌集」から取られた「寄物陳思(きぶつちんし、物に寄せて思いを述べる)」の万葉歌碑が建ち、西の葛城山に湧く雲を見て詠った歌

 春柳(はるやなぎ) 葛城山に立つ雲の
 立ちても居ても 妹をしぞ思ふ 巻11−2453
 真言宗「影現(ようげん)寺」

 また、境内の北側が「柿本神社」の神宮寺でもある「影現寺」です。空海の高弟・真済(しんぜい、京都・神護寺の僧)が、858年(天安2年)に創建し、鐘楼も在り、収蔵庫に填め込み式の首が夜に月の出る方向を向くと云われる紀僧正真済作「木造人麻呂像」が安置されています。更に北隣の平屋が「柿本人麻呂学校」、時々歌の勉強会が開催されますが、人麻呂は大伴家持が「山柿之門」と称えた「歌聖」、689年(持統3年)〜700年(文武4年)の間、万葉集に88首の歌を残し、主に行幸の際に詠った皇室賛歌や皇子皇女の死を悼む挽歌が多く、又、彼を祭神とする「柿本神社」は北海道から熊本まで二百数十社在り。




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