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重文の「博西(はかにし)神社」
「置恩寺」から真っ直ぐ東へ下って、ちょっと左にこん盛り樹木の繁った小山があり、麓を廻った東側に「博西神社」が鎮座しています。陵西、墓西とも書かれている社で、創建や由緒は明らかでありませんが、中世にこの辺りを支配した布施氏の氏神として、布施郷支配の信仰上の拠点で、本殿は二棟、南北両殿とも同じ規模の一間社春日造、両殿を障塀で繋ぎ、連結式として数少ない形式です。天文7年(1538年)の墨書があり、室町時代末期の様式を伝えています。なお、祭神は、北殿に下照比賣(したてるひめ)命、南殿に菅原道真公を祀っています。また、その昔は倭文(しとり)神社、波加仁志神社とも称していました。
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國史跡「屋敷山(やしきやま)古墳」
「博西神社」から更に東へ行くと、県道30号御所香芝線の手前に葛城市で最大規模の前方後円墳「屋敷山古墳」があり、全長約135m、前方部幅90m、後円部径約77m、同高さ約15mで、前方部を北へ向けています。埋葬施設は、長持形石棺の蓋石と小口板石、縄掛突起をもつ天井石が出土し、周囲に埴輪が巡らされていました。縦穴式石室と長持形石棺等から5世紀中頃のものと推定され、葛城氏に関係する古墳と見られています。なお、現在は「屋敷山史跡公園」で、「屋敷山」の名は、中世〜近世始め頃、布施氏がここに居館を構えて、更に江戸時代の始めに桑山氏が陣屋を築き、周辺に屋敷を構えたことに由来します。 |
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葛木御県(かつらぎみあがた)神社
「屋敷山公園」から県道30号御所香芝線を渡って東へ行くと、新庄中学の更に東に「葛木御県神社」が鎮座しています。なお、御県は皇室の御料地で、大和に「高市」「葛木」「十市」「志貴」「山辺」「曽布(添)」の六県があり、葛木県(かつらぎノあがた)が蘇我氏の本居(うぶすな)で、「葛木御県神社」の祭神は、豊宇気比売神(とようけひめノかみ)、または、天津日高日子番能瓊々杵命(あまつひこひこほのににぎノみこと)と云い、明治年間に天剣根命(あめノつるぎねノみこと)を追祀し、昔は桑海村(くわみむら、現葛城市)の鎮守で、現在地より東100mの西光寺(さいこうじ、今は廃寺)境内に鎮座でした。
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