二上山の麓、當麻の里  その5

 芭蕉旧跡「綿弓(わたゆみ)塚」

 「芝塚古墳」から「近畿自然歩道」を北へ辿ると、「竹内街道」で、芭蕉の旧蹟「綿弓塚」があります。1684年(貞享元年)8月野ざらし紀行で松尾芭蕉41歳が門人苗村千里の里を訪れ、「竹内の興善庵」に10日間滞在し、千里の案内で「當麻寺」にも参詣して諸仏を拝み、その合間に芭蕉が詠んだ句が次で、

 綿弓や琵琶に慰(なぐさ)む竹の奥

この好句を記念して、1808年(文化5年)10月建てられたもので、正面に「綿弓塚」、左面に「文化第六己巳十月高田紅園愚公建之」と刻まれています。
 竹内街道沿いの「休憩所」

 苗村千里(なえむらちり)に案内された松尾芭蕉は1688年(元禄元年)春再び竹内を訪れ、苗村家の下女・孝女伊麻にも会い、彼女の親を思う心に感激し「よろづのたつときも、伊麻を見るまでのことだ」と友人への手紙に書いていますが、芭蕉は、数回当地を訪れ多くの句を残しています。なお、綿弓とは弓形の棒に牛や鯨の髭(ひげ)の弦を張ったもので、木綿の実を綿繰車にかけ核をとっただけの綿を、弦ではじき打って柔らかくする道具のことですが、「綿弓塚」を建てたのは大和高田の俳人・西嶋紅園(こうえん)と脇屋愚口(ぐこう)で、塚は竹内街道に沿って整備された囲炉裏のある「休憩所」の裏庭に建っています。
 我が国初の官道「竹内街道」

 「綿弓塚」のある庭と民家を整備して「休憩所」とした屋内に、司馬遼太郎さんの色紙や芭蕉の資料等が置かれ、表通りに廻ると「竹内街道」です。613年(推古天皇21年)難波と飛鳥京の間に置かれ、飛鳥時代に我が国初の官道として栄え、大陸からの文物を飛鳥にもたらし、また、峠の東北の万歳山城は中世の城塁址で、辺りを駆け巡った大和武士が偲ばれ、中・近世は、伊勢、長谷参詣で隆盛し、茶屋、旅籠が峠を行く人々の旅情を慰め、1796年(寛政7年)4月小林一茶がここで一句詠み、1853年(嘉永6年)吉田松陰23歳も竹内を経て儒者を訪ね、1863年(文久3年)天誅組7名が志果たせず逃走しました。




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