二上山の麓、當麻の里  その4

 奈良県指定史跡「芝塚古墳」

 「岩橋山」から更に西へ下ると、既に県境を越して大阪府南河内郡河南町へ至るので、また、奈良県側へ下って県道30号御所香芝線の手前まで戻って、北へ道を辿ると「近畿自然歩道」で、「藤の木池」の南に「芝塚古墳」があり、全長50m、後円部径35mの前方後円墳で、東に面し、幅約15mの濠(ほり)を巡らしていたことが確認され、後円部の埋葬施設は未調査ですが、前方部から赤色顔料を塗った長さ3m、幅55cmの箱形木棺が出土して、木棺内に鉄刀1口(ふり)、鉄製やじり数点があり、また、墳丘や周濠(しゅうごう)から多数の円筒埴輪、須恵器、土師器等も出土し、6世紀前半の築造と推定されています。
 大和三ツ井戸の1つ「柾の井」

 「芝塚古墳」から「藤の木池」の西を廻って「近畿自然歩道」を北へ行くと、次は「竹内街道の綿弓塚」ですが、途中「当麻イートピア」住宅を左(西)側に見て歩くと、住宅地の一画に「武内弁財天」が歩道に背を向けて、歩道より一段高い所に鎮座しています。そこに南天が植わって、お堂の真裏にコンクリートで蓋(ふた)をした井戸があります。蓋には4つの穴が開けられていますが、この井戸は、弘法大師の空海が掘られた大和三ツ井戸の1つで「柾(まさ)の井」と云われ、弘法大師が諸国行脚、巡錫(じゅんしゃく)の際に、当地に立ち寄られて、水がなくて困っていた當麻村の人のために掘った井戸と伝えられています。
 長髄彦の墓、「鍋(なべ)塚」

 弘法大師の「柾の井」を過ぎて、更に北へ行くと、「近畿自然歩道」から東方に大和三山も見えますが、歩道から田圃を隔てて100mほど東に鬱蒼と竹藪で覆われた小さな丘があります。直径46mの円墳で、その丘の形が鍋に似ているので「鍋塚」と称し、古墳時代中期の築造と推定され、長髄彦(ながすねひこ)の墓と伝えられています。「古事記」「日本書紀」によると、神武東征で初代神武天皇が日向(宮崎)から瀬戸内海を通って大和に攻め入った時、生駒山の麓、石切の日下(くさか)で皇軍を迎え撃ったのが長髄彦ですが、後に皇軍が迂回して、熊野から大和に攻め入り、奈良市の富雄で長髄彦は討ち取られました。




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