大和高田市  その3
 専立寺(TEL 0745-52-5180)

 大和高田市大中の「春日神社」から少し東へ行き、右へ折れて南へ行くと、浄土真宗本願寺派如意山「専立寺(せんりゅうじ)」があります。大和五ヶ所御坊の1つ、高田御坊で、新田義貞の実弟脇屋義助四世の孫田崎義方が越前三国湊で出家して淨心と称し、本願寺八世蓮如が吉崎(現福井県金崎町)に下向の時、帰依して門徒になり、専立寺を開き、1600年(慶長5年)本願寺十二世准如が領主桑山佐衛門督から高田に寺地の寄進を受け、御坊一宇を建立して、淨心から四代の孫宗清が居住し「専立寺」としました。太鼓楼とともに天保の火災を免れた「表門」は、1794年(寛政6年)の建立で、豪華な彫刻を施しています。
 専立寺の「太鼓楼(たいころう)」

 「表門」を入ると、右に御坊格の真宗寺院にふさわしい「太鼓楼」があります。1786年(天明6年)建立、「表門」と重厚な築地塀でつながっています。大正時代に大和を訪ね、高田寺内(現在の南本町)の安川新平氏宅に逗留した野口雨情が、高田御坊の鼓楼で打つ太鼓の音を耳にして、次ぎの詩を作りました。

 高田御坊の櫓の太鼓 叩きゃぼんと鳴り
 ぼんと響く         野口雨情

また、雨情は「船頭小唄(枯れすすき)」が有名で、北原白秋、西条八十と並び三大童謡・民謡詩人です。
 如意山「専立寺」の「本堂」

 なお、かっては「表門」をくぐると、壮大な本堂がありましたが、1838年(天保9年)火災により、鐘楼、広間、座敷、台所などと共に焼失して、現在はちょっと奥まった所に写真の様な「本堂」が建っています。また、「表門」の前に石橋が残り、昔は境内の周囲に堀を巡らしていたことが知れます。これらは、真宗寺院が城塞的な伽藍配置をとっていた事を示し、寺内町特有な構えの名残を留めるものですが、大和地方では、これだけ近世成立の寺内町の遺構が残る例は少なく、特色ある歴史的景観を形成し、文化と歴史を感じさせる町並みを見せ、「表門」「太鼓楼」「築地塀」は、一括して市の文化財に指定されております。




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