大和高田市  その4
 梅田雲浜(うめだうんびん)、義雄先生碑

 「専立寺」から本町通りを北へ行き、四つ角で右へ曲がって東へ行くと、「県道5号大和高田斑鳩線」を渡った右側に「さざんかホール」があり、その東側に「梅田雲浜」の碑が建っています。勤王志士雲浜は、1815年(文化12年)に生まれ、通称が源次郎、若狭小浜藩士で、横井小楠、乾(いぬい)十郎、森田節斎(せつさい)、頼三樹三郎ら多くの志士と交り、1852年(嘉永5年)藩政に海防の建白書を出したので追放され、浪人となり、奈良県五條市の勤王学者森田節斎を頼って大和に来て、高田の豪商、木綿問屋・村島屋の縁者を後妻にしたが、1859年(安政6年)安政の大獄で捕らわれ、獄中にて病死しました。
 不動院(TEL 0745-52-1669)

 「さざんかホール」の直ぐ北隣に真言宗、御室派、金輪山「不動院」があります。俗に「大日堂」と呼ばれ、御本尊は、藤原時代の作「大日如来」で、脇侍に「千手観音」と「弘法大師像」を祀っています。また本堂は、桁行五間、梁間四間、一重寄棟造、本瓦葺、棟木の銘から、1483年(文明15年)高田城城主当麻為長が建立し、国重文です。棟札に「奉建立上棟大和国葛下郡高田郷薩摩証菩提寺本堂一宇文明拾五稔七月十二日大願主当麻雅楽佐為長(中略)大工橘成次(中略)一結衆等各々敬白」の墨書銘があり、当院がかって金輪山遍照院証菩提(しょうぼだい)寺の子院で、高田氏の出自が当麻氏であったことが判ります。
 天神社(TEL 0745-52-3382)

 「不動院」からちょっと東へ向い、突き当たりを左へ折れて北へ行くと、直ぐJR高田駅で、駅の東側に「天神社」が鎮座しています。天神宮縁起書によれば、第10代崇神天皇の御代に鎮座し、本殿の最も古い棟札は、貞応元年(1222年)で、祭神は高皇産霊(たかみむすび)神、神皇産霊(かみむすび)神、津速産霊(つはやむすび)神で、これらの神は「古事記」「日本書紀」に造化の神とあり、また、本居宣長の著「玉鉾百首」で「神の道は高皇産霊神、神皇産霊神の働きによって始まる」と記されています。なお、当地の地名「高田」は、高皇産霊神の「高」と、平安時代初期の「蓼田郷」の「田」から取られています。
 天神社の境内社「当麻社」

 御本社「天神社」の境内には、商売繁昌の神を祀る「恵比須社」、郷土の守り神を祀る「當麻社」、音楽と水の神・市杵島姫命を祀る「辨天社」、万民豊楽、衣食住の神を祀る「稲荷社」、高天原を統治して、皇室の皇祖神である天照皇大神を祀る「明神社」、学問の神様・菅原道真公を祀る「天満宮」がありますが、御本社「天神社」の直ぐ西隣に鎮座する「当麻社」は高田城主当麻参河守藤原為政をご祭神としています。藤原為政は、当「天神社」のご造営にも寄進があったこと、当「天神社」を崇敬なさったことなどが古文書に見えています。また、大和高田市の守り神として、当麻氏族はもちろん郷土の人達に崇められています。




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