高取  その7
 国史跡「マルコ山古墳」

 「束明神古墳」からまた北へ行くと、明日香村真弓の集落で、「泉福寺」の東に「マルコ山古墳」があります。東西に延びる真弓丘陵の南斜面に位置し、岩盤まで水平に削り取った上に寺院の基壇構築等になされる版築(土を薄い層状に突き固めて重ねる)で築き、高さ約5.3m、二段築成で一辺12mの六角形墳、北側に二重の石敷を半円形に巡らし、その下に礫を敷き詰めた暗渠があり、二重の石敷部分を含めた規模は径24m、凝灰岩切石を組合せた石槨は南に開口し、長さ2.72m、幅1.29m、高さ1.43m、床を含めた内壁の前面に漆喰を塗り、太刀金具等が出土し、天智天皇皇子・川島皇子の墓と云われています。
 貝吹山(かいぶきやま)城跡

 「マルコ山古墳」から北へ行って、農免道路を西へ行くと、「明日香村」からまた「高取町」へ入って、右手に「貝吹山(標高210m)」が見えて来ます。1185年(文治元年)宇野親家が高取町越智を領して、貝吹山に城を築き、子孫が越智氏を称して、長くこの城に依り、南和に覇を称え、城に事ある時には、三尺五寸の法螺貝を吹き鳴らして一族を集め、備えを堅めていましたので、城名を「貝吹城」と呼びます。なお、越智古老伝によると、1322年(元亨2年)越智四郎が楠木正成に敗れていますけど、1583年(天正11年)城主越智玄蕃頭が高取城で殺害され、貝吹城も陥落して、今は石垣が僅かに残るだけです。
 県史跡「乾城(かんじょう)古墳」

 また、約400年間も南和に覇を称えた越智氏は、「貝吹城」が本拠で、「高取城」を詰城とし、永享の大和合戦(1430〜40年)で越智維通が足利幕府軍に対抗して戦いました。なお、「貝吹山城跡」への登山道は、農免道路から右へ入るが、左へ向くと直ぐ「乾城古墳」があります。既に盗掘されて石棺も出土品も何もなく、ただ横穴式の石室構造をもつ円墳で、石室全長約7.5m、玄室長約6m、幅約3.6m、高さ約4.7m、羨道は一部側石を欠いていますが、長さ約1.5m、幅約1.6m、高さ約1.1mで、花崗岩の硬い石材を左壁は五段に、右壁は四段に積み上げ、天井は一枚の巨石を用いて築造されています。



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