高取  その8
 天津石戸別(あまついわとわけ)神社

 「乾城古墳」からまた「農免道路」へ出て、西へ向かうと、県道35号線のバス停「越智」のちょっと手前右へ入った川沿に「天津石戸別神社」が鎮座しています。古来は「九頭(くず)神社」と称し、「越智氏系図」に元暦二年(1185年)越智氏の祖、親家が戦場守護神として祀ったと記され、越智党団結の契機及び城館鎮護の神で、天手力男命(あまノたぢからおノみこと)を祀り、明治8年奈良県示達により「延喜式」神名帳高市(たかいち)郡「天津石門別神社」に治定され、社名も改称されました。なお、当社に拝殿はありますが、本殿はなく、板石を楯状に巡らした玉垣の中に御神体として榊が植えられているのみです。
 越智居館(おちきょかん)跡

 なお、式内「天津石門別神社」は、「天石戸別神」とも書き、「三代実禄」では貞観十七年(875年)三月二十九日正五位下より従四位下に昇叙していますが、「大和志」では式内社が近世まで所在未詳とされて、「五郡神社記」にのみ忌部村(いんべむら、現在橿原市)の「忌部神社(式内天太玉命神社)」に併祀と記され、「越智氏系図」に越智親家が冑の八幡座の九頭銀竜を安置して、九頭上(くずがみ)大明神と云って奉祀したという説話があります。また、小川を渡った東側の山際に「越智氏居館跡」があり、越智岡丘陵の南の谷間に「オヤシキ」の地名が残り、ここら辺りが中世の豪族越智氏の本拠地と云われています。
 光雲寺(こううんじ)の「厄除杉」

 「天津石戸別神社」から南へ行くと、集落を抜けた所に「光雲寺」があり、参道の入り口に樹高15m、幹周り5.2m、推定樹齢700年の巨樹「厄除杉」が植わっています。後醍醐天皇の南朝方で活躍をした越智邦澄が1332年(元弘2年)高取城を築いた時に植えたと伝えられ、1582年(天正10年)織田信長の命により、筒井順慶が越智氏の家臣鳥屋陣羽守を攻めた時、陣羽守の息子二人が、この木に登って難を逃れ、その時、息子の歳が42歳と25歳の厄年だったので「厄除の杉」と呼ばれ、明日香村「岡寺」の「星祭り」にこの杉の枝を持ち帰って厄払いに使い、平成9年奈良県により保護樹木に指定されています。



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