水辺の「川西町」、「三宅町」から桃太郎の古里「田原本町」 辺り  その3
 浄土真宗仏光寺派将照山「光林寺」

 「新野邸」からちょっと西へ上がると、バスが通る道です。北へ行くと直ぐ「大和川」の「馬場尻橋」を渡った所が「安堵町」で、南へ行くと直ぐ「寺川」を渡った所がバス停「吐田(はんだ)」で、バス停から「寺川」「大和川」の土手を西へ行き、「飛鳥川」に突き当たって川沿いに南へ向かい、「飛鳥川」の「保田(ほた)橋」を渡って西へ行くと、「曽我(そが)川」の「保(たもつ)橋」に至り、「保橋」を渡った所が「広陵町」ですが、「保橋」を渡らずに、手前の四つ角を南へ行くと、直ぐ「光林寺」です。国重文の本尊「木造阿弥陀如来立像」は、像高が81cmで、足柄に「承久三(1221)年法眼快慶」の銘あり。
 保田(ほた)の国重文「富貴寺」

 「光林寺」から更に南へ行くと直ぐ、「六県(むつがた)神社」の鳥居が旧道沿いに建っていて、境内へ入ると、手前に無住無檀で壺阪寺の末寺、「富貴寺」があります。俗に「宮寺」と呼ばれ、本堂は正面が五間(約9m)、側面が四間(約7.2m)、屋根が寄棟造本瓦葺の安定したお堂で、南北朝末期の1388年(元中5年)建立ですが、藤原時代の雰囲気が漂い、重文の本尊「木造釈迦如来坐像」は、平安後期の和様彫刻の様式を取り入れ、高さ84.5cm、寄木造漆箔。また、本尊に向って右に立つ重文「木造地蔵菩薩立像」は、像高96cmの声聞形立像で、やはり平安時代末期の和様彫刻、高さ96cm、桧の寄木造です。
 「六県(むつがた)神社」の「本殿」

 真言宗豊山派清涼山「富貴寺」の奧に「六県神社」が鎮座しています。旧村社で、元は「六所明神・保田(ほた)明神」と称していましたが、神殿に六面の神鏡が懸かっていた事により、明治時代の初期に現在の「六県神社」に改められ、祭神は六県命です。なお、毎年2月11日の夜、昔から伝わるユニークな御田植祭「子出来(こでき)おんだ祭」が行われます。その様子は、腹に小太鼓を入れて妊婦に扮した厄年の男子が、田植えをしている夫(神主)のもとへ弁当を持って行くと、産気づいてしまい、畦道で男子を出産し、夫は妻の腹からホリ出された太鼓を叩いて喜ぶというもので、夫婦愛・農耕勤勉を表現した特異な祭です。


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