水辺の「川西町」、「三宅町」から桃太郎の古里「田原本町」 辺り  その9
 三宅町伴堂の「杵築神社」本殿

 なお「忍性」は、1248年(宝治2年)同法定舜(じょうしゅん)が宋から将来した律三大部を鎮西から西大寺へ納置するなど、叡尊と供に文殊信仰宣揚と戒律復興に尽力し、1252年(建長4年)東国布教で関東に下向し、1303年(嘉元元年)7月12日鎌倉極楽寺にて入滅、世寿87歳。御遺骨は極楽寺、大和郡山の額安寺、生駒の竹林寺に分葬されました。「忍性菩薩誕生之地」から更に「太子道」を南へ行くと、三宅町屏風から伴堂へ入って、また「杵築神社」が鎮座し、こちらの拝殿にも豊年祈願と感謝を込めた「おかげ参り」や、明治18年〜20年の3年を経て造営された「伴堂池掘り」絵馬が奉納されています。
 「延寿院(えんじゅいん)」地蔵堂

 北北西に延び、他の道と筋違いになっている「太子道」を更に南へ行くと、道の右(西)側でちょっと奧まった所に「延寿院」があります。現在は無住ですが元高野山の末寺で、地蔵堂に、地蔵菩薩、不動明王、弘法大師像が祀られています。また、紙本(しほん)墨絵による龍の図や、紙本彩色画による地獄極楽図があります。なお、この辺り、集落内に入ると、迷路の様な袋小路、L型、T型等が多く、昔外敵との交戦に際し、難を逃れた通路です。また、「太子道」を南へ行くと、道脇に「太神宮」と彫られた大きな石灯籠が建ち、毎年7月16日「郷神(ごうしん)さん」で、各垣内(かいと)の「太神宮碑」にお供えをします。
 「三宅(みやけ)の原」

 「太子道」を更に南へ行くと、三宅町役場、中央公民館の辺りに「三宅の原」を詠んだ万葉集、巻13−3295、その反歌3296の歌碑が建っています。

 うち日さつ 三宅の原ゆ 常土(ひたつち)に
 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ 如何なるや
 人の子ゆえぞ 通(かよ)はすも吾子(あこ)
 諾(うべ)な諾な 母は知らじ 諾な諾な ・・

なお、万葉集に出てくる「三宅の原」は、古代天皇の稲作の御料地「屯倉(みやけ)」、「屯田(みた)」のことで、現在の「三宅町」及びその近傍辺りです。


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