水辺の「川西町」、「三宅町」から桃太郎の古里「田原本町」 辺り  その8
 三宅町屏風の旧村社「杵築(きつき)神社」

 聖徳太子が開いた「太子道(たいしみち)」を夾んで「白山神社」の反対側に鎮座しているのが、三宅町屏風(びょうぶ)三河の鎮守「杵築神社」です。出雲大社系の神社で、本殿は古式を残し、祭神は須佐男命(すさノおノみこと)。石灯籠に「牛頭天王(須佐男命)宮」と彫られています。なお、拝殿に県指定有形民俗文化財で、慶応4年(1868年)に奉納された「おかげ踊り」の絵馬があり、太神宮の幟(のぼり)を立て、太鼓と三味線に合わせ、30人ばかりの人が整然と踊っている様子を描いていますが、江戸時代の末、この年に行われた伊勢神宮への「お蔭参り」は、狂騒的な「ええじゃないか」騒動と云われています。
 「杵築神社」境内の「屏風の清水」

 また、「杵築神社」の拝殿には、「聖徳太子接待」の絵馬も奉納され掲げられていますが、「杵築神社」の境内には、拝殿に向かって左(北)側に行った所に、「屏風の清水」があります。その昔、聖徳太子が愛馬「黒駒」に乗馬して「太子道(筋違い道)」を通り、斑鳩の「法隆寺」から「飛鳥の宮」まで通っておられた時、この地で黒駒を止めて休息され、従者の調子丸(ちょうしまる)が持っていた弓をとって地を打ち、穿(うが)かれると、冷水がこんこんと湧き出たそうです。以降、太子はこの地をお通りになる時、何時もここで冷水を愛飲されたと言い伝えられていますが、なぜだか、今では一滴の水も湧き出しておりません。
 「忍性菩薩誕生之地」の石碑

 三宅町屏風の「杵築神社」を出て更に「太子道」を南へ行くと、道の左側の小川を渡った所に「忍性菩薩誕生之地」の石碑が建っています。良観房忍性上人は鎌倉時代の律僧、1217年(建保5年)7月16日父・伴貞行、母・榎(えのき)氏の女(むすめ)の子として、ここ城下郡屏風里(磯城郡三宅町)で誕生。母の影響で幼少より文殊信仰と行基崇敬に親しみ、母が逝去の時16歳で「額安寺」にて剃髪、1239年(延応元年)以降は、大和「西大寺」中興開山の興正(こうしょう)菩薩・叡尊(えいそん)上人に師事して「額安寺」西辺や「般若寺」・奈良坂近郊の北山宿等で文殊供養と貧窮病者への施行を併せ行いました。


奈良観光表紙に戻る  川西町・三宅町周辺図を開く  前のページに戻る   次のページに進む