東大寺  その4

 祇園八坂神社「祇園社」

 「依水園」から西へ行き、県知事官舎の前を通って国道169号線へ出たら、北へ向かうとバス通りに面して右(東)側に「祇園社」が鎮座しています。本殿の御祭神三座は、建速須佐男命、櫛稲田媛命、八柱御子神で、末社に菅原道真朝臣、市桙島比賣命が祀られています。本社創立は、古記録によると、1338年(建武5年)6月5日になっていますが、確たる事は分明しません。なお、当社は、往昔より殊に疫病除けの神様として一般の崇敬並々ならぬものがあります。また、御祭神の建速須佐男命は、伊邪那岐大神の息子で、出雲の斐伊川で八俣大蛇を退治して、櫛稲田比賣命と結婚し、市桙島比賣命など八柱御子神の親です。
 東大寺の国宝「転害門」

 「祇園社」から更に北へ行くと、東大寺の西大垣の北寄りに「転害(てがい)門」があり、幅六丈の一条南大路に向って開き、天平の様式を今に伝える三間一戸、本瓦葺、切妻造八脚門です。「佐保路(さほろ)門」「碾磑(てんがい)門」「景清門」とも呼ばれ、東大寺の鎮守手向山八幡宮の転害会でここをお旅所とし、門中央に御輿を置く石4個あり、謡曲の「大仏供養」では、平家の遺臣悪七兵衛景清が京都清水寺に参籠した時、源頼朝が東大寺の大仏供養に参列することを聞き、秘かに奈良に来て、頼朝を襲撃する為、白張浄衣の姿に身をやつし、ここに隠れて待っていたが、頼朝の臣に見破られ、武者を切って立ち去りました。
 宮内庁管轄の「正倉院」

 756年(天平勝宝8年)6月21日光明皇后が、聖武天皇七七忌日に天皇の冥福を祈って、遺愛品など六百数十点と薬物六十種を大仏さんに奉献しました。なお、光明皇后の御奉献は前後五回に及び、その品々は二等辺三角形の校木(あぜき)を横に組んだ校倉造の正倉院に収蔵され、永く保存される事になり、これが正倉院宝物の起こりです。所で、東大寺の他の建物は何遍も炎上したけど、正倉院は不思議と災害を免れ、1254年(建長6年)6月にも雷が落ちて、あわや火事かと思われた時、正倉院のすぐ北に立つ3本杉の根本に鎮座する「杉本明神」が竜に姿を変えて現れ、口から流水を噴き出して消火し、事無きを得ました。
 文使い地蔵を安置する「知足院」

 奈良の県花と、奈良市の花は「奈良の八重桜」ですが、その原木が植わっているのが、東大寺で最も北に位置する「知足院」の境内です。また、知足院には「文使い地蔵」が安置されて、これは治承4年、平重衡(たいらノしげひら)の軍勢によって焼かれた大仏さんの再建で、造寺の長官を勤めた佐大辨の藤原行隆が大任を果たし、無理がたたって亡くなった後に、嘆き悲しんだ娘が毎日毎日お地蔵さんにお願いしてたら、7日目の朝、お地蔵さんの手に文(ふみ、手紙)が握られていました。びっくりした娘が文を取り上げて見るとそれは紛れもなく父行隆の字で、兜率天(とそつてん)の観音様の元にいると書かれていました。
 東大寺の国重文「大湯屋」

 「大仏殿」裏を東へ、「二月堂」の方へ上がって、お地蔵が北向きで並ぶ所を南へ入ると、「大湯屋」が建っています。創建の年代は不明ですが、東西八間、南北五間、西正面入母屋、東背面切妻造で、柱の上にある木組みの肘木が和様で、詰め組の中備えをなす丸みのある肘木が唐様です。ここも、1180年(治承4年)の兵火で罹災して、その後、俊乗上人が再建され、惣深上人が修理を加え、通常は鍵が閉まって外から見えないけど、内部を3区分して、中央の浴室に、1197年(建久8年)鋳物師の草部是助(くさかべこれすけ)が鋳込んだ重文の湯釜、胴がやや膨らみ、口径231cm、深さ73cmが据えられています。




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