東大寺  その6

 国宝の「法華堂(羅索堂)」

 白い漆喰塗りの土の壇(亀腹)上に建てられている「法華堂」は、丈六(4.85m)の本尊「不空羅索観音立像」に因んで「羅索(けんじゃく)堂」と呼ばれ、「羅」は狩猟の網、「索」は魚釣りの糸の事で、それらを持って、人々の苦難を摘み取る観音様です。なお、国宝で秘仏「執金剛神像」は毎年12月16日に開扉され、厨子の前に掛かっている2基の鉄釣灯籠は、鎌倉時代の作で国重文ですが、火袋中段の網目文に止まっている蜂は、執金剛神の元結から飛び出し平将門を刺しました。また、堂の前に建つ石灯籠は、刻銘入りでは、日本最古で、1254年(建長6年)宋人・伊行末(いぎょうまつ)が造って施入しました。
 三昧堂(さんまいどう、四月堂)

 「法華堂」の西側に建つのが、三間四方で正方形の「三昧堂」です。毎年4月に法華三昧が行われるので「四月堂」とも称し、また、かって本堂の「千手観音像」の脇侍だった「普賢菩薩像」を本尊として安置していたので、「普賢三昧堂」とも称され、現在の様に二重屋根の形式を持つお堂は、室町時代(1400年〜1500年代)の建築物と云われています。なお、北隣に建つのが大仏様遺構の「開山堂」で、内陣に平安時代作の木造肖像彫刻として名高い「良弁僧正坐像」が、実際に僧正が愛用された如意(にょい)を手に持ち、「実忠和尚坐像」と背中合わせで安置され、境内に奈良三銘椿の1つ「糊こぼし」が植わっています。
 東大寺の「不動堂(ふどうどう)」

 また、「法華堂(三月堂)」の前から東へ登ると、高台に「不動堂」が建っています。室町時代の建物なので、鎌倉時代の大仏様ではシンプルだった屋根の下の梁の両端(木鼻)が、牙を待つリアルな象で彫刻され、ここでは、仏教修行の1つ、加行(けぎょう)の最後に不動護摩(ふどうごま)を焚かれますが、その時、お不動さんが悪戯をして美女の姿で現れ、修行が熱心に行われているかを試されると云う伝承があります。なお、「華厳経(けごんきょう)」では、菩薩の修行の階位を十地(じゅうじ)に分け、その八地が「不動地」ですが、煩悩(ぼんのう)に惑わされる事なく、自在の力を持った境地を不動と云うそうです。
 国重文の「校倉」と「御髪塔」

 「法華堂(三月堂)」の南隣が「手向山八幡宮」、正面に四基づつ並んだ石灯籠の左右に、それぞれ同じ「校倉(あぜくら)」が建っています。南側が「手向山八幡神輿庫」で、北側が「法華堂経庫」です。この様な校倉は、奈良・平安時代の中央及び地方の官庁や大寺院に必ず在り、校倉の棟が集まった一廊を正倉院と言い、当時は何処にでも在りましたが、長い年月で殆どの校倉が取り潰され、今も残っているのは、ここと、唐招提寺の校倉、そして、東大寺の正倉院の校倉一棟だけです。また、「法華堂経庫」の南隣に十三重石塔「御髪塔」が建っていますが、これは大仏殿の再建で使用された黒髪のロープを埋めて祀っています。
 手向山八幡宮(0742-23-4404)

 「手向山(たむけやま)八幡宮」は、大仏鋳造の時に、その守護神として豊前(大分県)の宇佐八幡神を勧請され、東大寺の鎮守社でしたが、明治維新直後の神仏分離に際し東大寺から独立しました。1691年(元禄4年)公慶再建の本殿に祀られていた快慶作で国宝「木造僧形八幡座像」は、今は東大寺勧進所の八幡殿に秘仏として安置され、毎年10月5日に開扉されますが、座像に「建仁元年(1201年)十二月二十七日開眼造立施主快慶」の墨書銘があります。他には国宝の「唐鞍(からくら)」も有り、また、ここで売られてる絵馬は、縦型で馬の絵が描かれ、後ろ前がよく分からないけど、古い絵馬の形を留めています。
 手向山八幡宮の「オガタマノキ」

 本殿に向かって右に「オガタマノキ」があります。樹高約18m、幹周2.4m、推定樹齢300年で、暖地に生育するモクレン科の常緑高木、花は約3cmで黄色みを帯び、とても良い香りを放ち、密に繁る葉は光沢があり、長楕円形で硬いけど、ミカドアゲハの幼虫が食べ、昔は「賢木、栄木、さかき」と呼び、神事に用いたが、現在用いられるツバキ科の「サカキ」とは別で、招霊(おきたま)の「おがみたまう木」が訛って「オガタマノキ」になり、秋に果袋の中に真っ赤な丸い実が成って、振ると妙なる澄んだ音がして、天宇受売命天岩戸の前で踊った時、手に持っていたのが「オガタマノキ」の小枝で、神楽鈴の起源です。
 菅原道真の「腰掛石」と「歌碑」

 「手向山八幡宮」の本殿に向かって右(南)へ行くと、菅原道真が腰を掛けた石があり、彼は、898年(昌泰元年)10月朱雀院(宇多上皇)が吉野の宮滝から、竜田山を越えて河内に入り、住吉神社に詣でて御幸された時に随行し、「手向山」にも立ち寄って、「百人一首24」に載った「古今集」の和歌を詠み、

 此のたびは幣(ぬさ)も取りあえず手向山
 紅葉の錦(にしき)神のまにまに  菅家

 時に彼は54歳、右大臣に昇格する前年で、それから3年後、筑前の大宰府へ左遷(させん)されました。




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