高原の里「都祁」  その4

 県史跡「三陵墓西古墳」

 バス停「来迎寺」から榛原行のバスで東へ行くと、次のバス停が「都祁南之庄」で、次が「南之庄東口」ですが、少し手前の左(北)側に「三陵墓」古墳群があります。古墳が3基あり、都祁野岳から北に延びた尾根上に造られた大型円墳が「三陵墓西古墳」です。直径約40m、高さ約5m、墳頂部の直径約16m、1段築成で墳頂部と墳丘斜面に葺石が施され、墳頂部外周に円筒埴輪と朝顔形埴輪から構成された埴輪列が巡らされ、平成7年の調査で、長さ8.35mの割竹形木棺が出土し、棺床に赤色顔料のベンガラを散布していました。築造時期は、出土した円筒埴輪などから古墳時代の中期(5世紀)前葉と考えられています。
 県史跡「三陵墓東古墳」

 「三陵墓西古墳」の直ぐ東にあるのが、大和高原・宇陀郡の中では最大級の前方後円墳「三陵墓東古墳」です。墳丘長約110m、後円部径約72m、前方部長約39m、前方部幅約50mあります。墳丘斜面に葺石が施され、後円部は3段に形づくられていて、各段と墳頂部に埴輪が立て並べられています。また、前方部と後円部の高さの差が7.5mとかなり大きく、5世紀の後半でも古い頃に造られた古墳です。主体部は、未発掘ですが、粘土槨と思われる埋葬施設から銅鏡2面のほか玉類、鉄製武器、工具類が多数出土したと伝えられています。墓の主は明らかではないけど、古事記に都祁直(つげノあたい)の名前があります。
 都祁野岳(つげのだけ、都介野富士)

 「三陵墓古墳群」の南に聳えるのが大和に3つある富士山の1つ、都介野富士の「都介野岳(標高631.2m)」です。バス停「南之庄東口」の近くに建つ案内板に従って民家と茶畑の間を南へ向い、右に田圃を見た後、林道を30分ほど登ると、「国津神社」の方からの登山道と合流し、最後の丸太の急階段を上がり、役行者の祠を右に見て、更に登ると山頂台地で、熊笹の繁る道の左脇に、国土地理院の四等三角点があり、直ぐ奥に建物が二棟建ち、手前の平屋の室内に「龍王神社」が鎮座し、山頂は南北に長い台地で、展望図もあるけど、残念ながら木立が邪魔をして展望はもう一つ。なお、写真は古墳の北方から撮りました。
 下部(おりべ)神社

 「三陵墓古墳群」から東へ出て、国道369号線を南へ2.6キロ行くとバス停「吐山(はやま)」で、北へ少し戻ると「吐山小学校」があり、講堂の裏から南へ100m行くと鳥居が見え、右に折れて100m「下部神社」が鎮座しています。祭神は、彦八井耳命と天之児屋根命です。なお、吐山地区には7つの垣内(かいと)があり、それぞれの垣内ごとに雨乞いや、その満願に際して踊られる県無民「太鼓踊り」の組が編成され、氏神である「下部神社」において7組合同で踊りが実施されます。江戸時代の写本、「元禄六年(1693年)八月太鼓踊歌本」が伝わっているのでその頃から既に踊られていたことが判かっています。
 国天然「吐山スズラン群落」

 バス停「吐山」から更に南へ約2キロほど行くと、「香酔(こうずい)峠」を越して榛原町へ至るけど、香酔峠の手前200mの所を右(西)へ入って、また南へ上がり、山に突き当たると、毎年5月中旬の頃、白くて可憐な花の咲く「スズラン群落」に至ります。ここは、海抜500〜600mで、日中の直射日光が林床に届くのを周囲のクヌギ、コナラ等の落葉広葉樹が適度に遮るので、夏季でも涼しく、スズランの生育条件に適し、その群落が出来たと考えられています。なお、国道369号線から反対(東)へ1キロ入った宇陀郡室生村向淵(むこうじ)にも「スズラン群落」があり、共に日本におけるスズラン自生南限地です。




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