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地獄谷園地、頂上の「東屋」
万葉集で春日山を詠んだ歌は、巻8〜10に19首あり、殆ど黄葉(もみち)を詠み、それも発想が実に繊細で、自然の美が的確に、優美に詠われています。
今日の朝け雁が音(ね)聞きつ春日
山黄葉にけらしわが情(こころ)痛し
秋されば春日の山の黄葉(もみち)
見る寧楽の都の荒るらく惜しも
雁がねの声聞くなへに明日よりは
春日の山は黄葉そめなむ |
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国史跡「春日山石窟仏」
「地獄谷園地」、「新池」の西側から北へ約400m登って行くと、左側の崖の上に覆屋で囲まれた国史跡「春日山石窟仏(穴仏)」があります。なお、崖上に上がるには、手前からでなく、少し進んで「奈良奥山ドライブウェイ」まで出てから登と楽に上がれます。「春日山石窟仏」は、大仏殿を建てるために春日山の疑灰岩を切り出したその跡に彫られたもので、かなり風化が進み痛みが目立ちます。平安時代末期の作で、「甘日始之作者今房願意」と刻まれた銘があります。また、以前は「甘日」の上に久寿2年(1155年)八月の銘も有りましたが、今は欠損してありません。なお、羅漢4体仏の他に大日如来石仏等もあります。 |
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「鶯(うぐいす)ノ滝」
旧柳生街道「滝坂ノ道」東海自然歩道からちょっと外れますが、「春日石窟仏」から「奈良奥山ドライブウェイ」を北へ約1.6キロ程行って、右の谷の方へ木立の中を約600m程下りると、下の方から水音が聞こえて、朱色の柱に黒の手摺りを渡した欄干の橋を渡ると、目の前に長布を垂らしたような「鶯ノ滝」が現れます。その昔、滝を落ちる水滴が氷をたたいて、その音がまるで鶯が鳴いているように聞こえたところから、その名が付いたと云われています。また、ここへは、俵藤太秀郷の十代の孫で、かって鳥羽院の下で北面の武士として仕えた左兵衛尉・佐藤義清(さとうのりきよ)が1140年(保延6年)10月23歳で出家して、法名を円位と名乗り、号を西行・大宝坊とした「西行法師」が諸国遍歴の途中に春日神社(今の春日大社)に詣で、東大寺のふもとに俊恵を訪ねて、歌語りした頃に立ち寄り、和歌に「鶯ノ滝」を歌っています。なお、西行法師の妻も夫の出家後、まもなくして尼になり、高野山のふもとに移住したそうです。 |
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聖人窟の国史跡「地獄谷石窟仏」
「春日山石窟仏」から「春日奥山ドライブウェー」へ下りて、道を横切り東へ向かうと、「石切峠」への道ですが、「ドライブウェー」を少し南へ行くか、又は、先の「新池」からそのまま東へ辿ると、「ドライブウェー」から更に東へ分け入る道があり、その山道を600m行くと「地獄谷石窟仏」があります。山肌に彫って鉄格子と金網に囲まれ、正面の3尊は身体部分に金箔を施し、向かって左から薬師如来、盧舎那仏(るしゃなぶつ)、観音菩薩で、更に右側の壁に彫られた1体が妙見菩薩と云われ、大仏殿の建立時の石工か、平安時代末期に大乗院の僧が彫ったらしいです。
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