旧柳生街道「滝坂の道」  その15

 柳生家歴代の墓地

 「芳徳禅寺」の寺名は、1606年(慶長11年)80歳で亡くなった石船斎の法名「芳徳院殿荘雲宗厳居士」に因んで付けられ、「柳生家の墓地」は「芳徳寺」の脇を通り北東へ50m行った所にあり、歴代で80数基の石塔が並び、2列目の中央の大きな石塔が宗矩の墓で、酒樽の台に徳利の塔と杯の笠は八代藩主の二男柳生俊睦乏斎の墓で、東側の右端に上泉伊勢守信綱の供養塔「柳眼塔」もあります。なお、柳生家は12世紀中頃から春日大社の荘園管理者として柳生に土着し、「芳徳寺」の北東にある「古城山」は柳生城址ですが、1544年(天文13年)筒井順昭によって攻め落され、後の居城が山王台(芳徳寺)でした。
 旧柳生藩家老屋敷(TEL 0742-94-0002)

 「芳徳寺」から里へ下りて、今川に架かる「もみじ橋」を渡り、国道369号線を越え真っ直ぐ西へ進み突き当たった高台に旧柳生藩の幕末の家老小山田主鈴の旧宅があります。主鈴(しゅれい)は岩代国(福島県)の出身で、江戸の柳生藩邸に仕え、才腕を認められて国家老で奈良に移り、藩財政を立て直した功績により敷地を藩公の柳生但馬守俊章から賜って、尾張の石工が築いた石垣の上に1848年(嘉永元年)6月屋敷を建てたが、昭和31年末裔が奈良市大森町に移って人手に渡り、昭和39年作家の山岡荘八が住み、昭和46年NHK大河ドラマ「春の坂道」を書いて、その後、昭和55年に遺族が奈良市へ寄贈しました。
 柳生のシンボル「十兵衛杉」

 「旧柳生藩家老屋敷」から北へ向い、国道369号線を越えた西側の山の中腹に落雷で枯れて白くなった樹齢350年の「十兵衛杉」が立っています。なお、宗矩の長男、独眼流柳生三厳(みつとし)十兵衛は、1607年(慶長12年)に生まれ、家光の小姓として側近く仕えていましたが、1616年(元和2年)家光の父、徳川第2代将軍秀忠に仕え、後に勘気をこうむって退き、柳生へ戻り、1626年(寛永3年)隠密として諸国漫遊の旅に出るとき、杉の木を植え、12年後、1638年(寛永15年)9月17日許されて柳生へ帰り、道場を開いて門弟1万3千6百人に柳生新陰流を教えて、奥義「月之抄」を書きました。




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