吉野  その12

 横川の覚範の「首塚」

 次第に展望がきく好い坂道を登ると、右(西)側に横川覚範の供養塔が建っていて、その横に首塚が在り写真の様に大木が植わっています。この辺りは上下が上の千本で、俗に滝桜と云われている所です。満開の頃、下の方から見上げる桜があたかも花の滝がたぎり落ちる様に望まれるので、その様に呼ばれています。なお、横川の覚範は、1185年(文治元年)12月吉水院を抜け出した源義経の一行が途中で静と別れ、この上の子守の社まで逃げ延びた時に、追って来て、中院谷(首塚の後ろの谷)で戦い、義経の家来の一人佐藤忠信が少し上の花矢倉から放った矢に討たれて、ここで首を取られ、それを埋めた塚が「首塚」です。
 佐藤四郎兵衛忠信の「花矢倉」

 横川覚範の「首塚」から少し上がると「花矢倉」で 源義経の身代りとなって主従を落ち延びさせる為に、佐藤忠信が一人で踏みとどまり、追いすがる敵を切り防いだ古戦場です。忠信は小高いこの丘に上がって、攻め寄せる僧兵、中でも妙覚院の豪僧、横川の覚範に向かって、矢を雨霰と浴びせかけ、深い雪中で血刀をふるって戦い、みごと覚範の首を取りました。なお、忠信は奥州信夫(しのぶ、福島市)の庄司、佐藤元治の子で、義経が金売吉次に伴われて平泉(岩手県)の藤原秀衡の元に身を寄せた時、兄の継信と共に義経の家来になった侍で、弁慶と並んで義経の片腕として、大いに活躍し、ここから京都へ落ち延びて行きます。
 世尊寺跡の国重文「三郎鐘」

 「花矢倉」から更に南へ登ると、また右(西)側に展望台が在り、この辺りの桜を「雲井の桜」と云い、遙か下に蔵王堂を望む事が出来ますが、ここは世尊寺跡で、明治8年廃仏の難に遭い廃寺となっています。本尊と吊り鐘、それに石灯籠だけが残り、本尊の木造釈迦如来立像は鎌倉時代の作で、蔵王堂に安置され、また石灯籠は少し上の水分(みくまり)神社の前に移され、吊り鐘だけがここに残っています。俗に吉野三郎と称され、東大寺の奈良太郎、高野山根本大塔の高野次郎と共に日本三古鐘の1つです。造られたのは1140年(保延六年)、平清盛の父忠盛が鵜飼千斤施入した旨の銘が有りますが、後に改鋳しています。




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