吉野  その13

 吉野水分神社(TEL 07463-2-3012)

 「世尊寺跡」から更に300m程登ると道の正面に「吉野水分(みくまり)神社」が鎮座しています。吉野八社明神の1つで「子守(こもり)明神」とも呼ばれ、石段をちょっと上がり楼門を潜ると中は桃山時代の優美な建築美を見せていますが、創建は定かでないけど、延喜式(えんきしき、平安中期の延喜5年醍醐天皇の命により、藤原時平、忠平らが編集した50巻の法典で、律令の施行細則や神社の事が載っている)内社で、古い祝詞(のりと)に伝える葛木水分神社都祁水分神社宇太水分神社と共に大和国四所水分社の1つ、祭神は「水」を司(つかさど)る水の神で、社殿は1604年(慶長9年)豊臣秀頼の再建です。
 「吉野水分神社」の重文「本殿」

 なお、社殿はいずれも重文の本殿、拝殿、楼門、廻廊、幣殿から成り、本殿は桁行九間・梁間二間で中央が春日造、左右が流造檜皮葺で三殿が並び立つ華麗な建物です。祭神は国宝の「玉依媛命」、座高89.5cmを始め、木造の七神で、平安から鎌倉時代の作、また、当社を「子守明神」と云うのは、水分(みくまり)が「みごもり」「御子守り」と転化し、藤原道長の日記「御堂関白記」や清少納言の「枕草子」にも載っていて、本居宣長は彼の両親が当社に願かけをして生まれたので、1772年(明和9年)「菅笠日記」でお礼参りをし、崇敬は吉野山随一、下宮(山口社)の「勝手神社」に対し、当社を上宮と称しています。
 高城山(ツツジが城)

 「吉野水分神社」から南奧の坂道は一段と狭くて、ちょっと登った所に、大塔宮吉野城の三堀切の1つで 「丈之橋跡」の石碑が建っていますが、そこから少し行くとまた「牛頭天王社跡」の石碑が在り、更に南へ上がると高城山(標高702m、ツツジが城)です。昔、吉野宮(今の宮滝)に遊んだ宮廷歌人が万葉集で

み吉野の 高城の山に白雲は 行きはばかりて
 たなびけり見ゆ    巻3−353

と詠んだ山で、また、1333年(元弘3年)大塔宮護良親王が北条幕府と戦った時は、奧の詰城でした。
 高城山展望台

 1333年(元弘3年)2月1日吉野城に立て籠もって、攻め寄せ来る北条幕府方6万の大軍を相手に、激しい戦闘を繰り広げていた大塔宮護良親王は、ここ「ツツジが城」の間道の機密が、岩菊丸の密告により北条方に漏れ、最後の決戦地と頼んでいたこの詰城が真っ先に落ちたので、村上義光を二天門へ残し、やむなく高野山へ落ち延びました。なお、ここからは東に三重県境の高見山、西に金剛葛城の連山、北に遠くは竜門山塊、近くは蔵王堂が見渡せて抜群の展望です。

神さぶる 磐根(いわね)こごしき み吉野の
 水分山を見れば悲しも  万葉集巻7−1130




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