吉野  その2

 吉野神宮の大鳥居

 「六田の宿」から「一の坂」「長峯」を通らずに、バスで吉野山へ登る時は、近鉄吉野線「吉野神宮駅」から登ります。駅前から南へ向かうと直ぐに大鳥居が建っていて、ここから「吉野神宮」までは少し急坂を約1キロ程曲がりくねって登ります。「吉野神宮」の在る辺りは吉野山の北端で「丈六平」と呼ばれ、昔はそこに「勝福寺」と云う修験寺院が在り、身の丈1丈6尺の蔵王権現を祀っていたので、俗に「丈六山一之蔵王堂」と呼ばれていました。その後、鎌倉時代末期になって、大塔宮護良親王を攻める鎌倉幕府の二階堂道薀軍の本陣となりましたが、明治初年の廃仏毀釈により寺院が取り潰され、明治22年神宮を創建する。
 吉野神宮(TEL 07463-2-3088)

 「吉野神宮」の祭神は、第96代後醍醐天皇で、御神体は第97代後村上天皇が自ら刻んだ後醍醐天皇の尊像を吉水(よしみず)神社から移転したものです。また今の社殿は、昭和3年に竣工され、後醍醐天皇の建武の新政の事跡を讃え、これを昂揚する当時の皇国思想を反映して大規模な社です。なお、社殿はかって後醍醐天皇が京都の御所へ帰還される事を熱望されていた心情を汲んで、京都の方角を向き、北向きに建てられています。また、ここから西に金剛葛城の連峰、北に吉野川の清流を隔てて龍門、高取の山が望まれ、そして、南の吉野山へはなだらかに登って行きます。

 村上彦四郎義光(よしてる)の墓

 「吉野神宮」から南の「吉野山」へ向かう途中に、写真の様な「村上義光の墓」が在ります。吉野散策図では「吉野神宮」が記載されていませんが、神宮か らお墓までは南へ約1キロ程です。村上彦四郎義光は、信州埴科(さらしな)の人で、早くから後醍醐天皇の息子、大塔宮護良親王に従って北条幕府と戦い、吉野城が落ちた、1333年(元弘3年)大塔宮の鎧兜を借りて宮の身代わりとなり、蔵王堂前の二天門の高櫓(たかやぐら)に上がり、腹かき切って果てました。 なお、義光の子の義隆も、父と共に死のうとしたが、宮を守って落ち延びる様に諭され、高野山へと向かう途中、ここから南2キロの山中で討ち死にしました。
 七曲り下(しも)の千本

 「村上義光の墓」からバス道路を南へ登って来ると「昭憲皇后野点の跡」展望台で、「七曲り下の千本」です。ここには、近鉄吉野線の終着駅「吉野駅」から「幣掛神社」を経て、吉野山への「七曲り」の急坂を登って来ることも出来ます。そして、この付近一帯に植わっている桜が下(しも)の千本で、昔の一目千本と云う眺めもこの辺りです。元禄頃の「吉野紀行」に「日本が花」七曲りなと過ぎ行くに、諸人桜苗を求め自らも又桜30本を植えて蔵王権現に奉る、とあり。

 いつかまた 訪ふと云ひつつ美吉野の
   我が植えおきし花を来て見む
 吉野三橋の1つ、下千本の「大橋」

 貝原益軒も「和州巡覧記」で、「七曲り、この坂に村童ども多く桜苗を売りて、すなわち唐鍬をもって植える。下の谷を桜田という名所也」と書いている所が「七曲り下の千本」で、更に少し上がると、川も流れてないのに、そこに写真の様な橋が架かっています。「大橋」と呼ばれ、竹林院前の「天王橋」、今は無いけど、昔は吉野水分神社前に在った「城之橋」と共に吉野三橋の1つで、1333年(元弘3年)に大塔宮護良親王(おおとうノみやもりよししんのう)が北条幕府方に対し、吉野城に立て籠もった時の空堀に架る橋ですが、近頃は車が通るので昔の木の橋を鉄筋コンクリートに造り替え、空堀も埋め補強されています。




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